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Ry0TAの日記

2010-03-12

サーチナ「中国人口学者の推論「一人っ子政策が同性愛者を増やした」?」の記事について、メモ

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中国人口学者の推論「一人っ子政策同性愛者を増やした」?—サーチナ(2010年3月11日)

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0311&f=national_0311_045.shtml

  

Yahoo!ニュースでの転載

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100311-00000073-scn-cn

  

驚くようなトンデモ推論なのだが、ここで気になるのは、人口学者・何亚福氏の推論の内容だけではない。

サーチナの記事(編集担当:金田知子氏)の発信のしかただ。

  

漢語メディア中国関連情報を発信するネットメディアについて無知なので限界はあるが、この記事の背景を、少し調べる努力をしてみる。

(ただし、ざっと、取り急ぎの作業だ。あとでできればまとめなおすと思う。)

  

  人民網が運営するBBSサイト「強国社区」ではこのほど、中国で開催中の「両会(全国人民代表大会中国政治協商会議)」に合わせ、さまざまな社会問題を提起する「2010E両会」が設けられ、多くの分野の問題について、意見交換がなされている。

  

  中国の人口問題専門家で、自身も同サイトで論評を掲載する何亜福氏はこのほど、同サイト上の「同性愛者の人権問題」について言及する論評に着目。同性愛者がここ30年で急激に増えているとの現況にも触れ、理由が人口抑制政策「計画生育(一人っ子政策)」にあるのではないか、との持論を展開した。

  

まず記事が説明する前提が、(分かる人には分かるのかも知れないが)よく分からない。

  

最初に出てくる「2010E両会」とは、こちらだ。

http://elianghui.people.com.cn/2010/index.html/

よく分からないのだが(もうダメだ)、会員登録をして、様々な議題を提起して意見を述べ、それについて投票したり、コメントしたりする、ネットフォーラムだ。中国語が分かる人は、自分で確認して下さい。

  

何亚福氏は、「強国社区」にも多くの論評を掲載しているが(http://bbs.people.com.cn/quickSearch.do?threadtype=1&field=userNick&op=in&content=何亚福&mysrc.x=30&mysrc.y=8&mysrc=搜索)、この「2010E両会」にも人口問題に関する議題をいくつか提起している。

http://elianghui.people.com.cn/forumSearch.do?title=&tt=&user=何亚福&ut=0&filesize=&ft=&keywords=&threadtype=1&select=0&select2=0&textfield=何亚福&stime=&etime=&x=40&y=11

  

この「2010E両会」に、青少年網絡聨合盟により、2月18日付で「关于人权问题-中国同性恋问题(人権問題に関して—中国同性愛問題)」という提案が掲載された。

  

E提案第3761号 已立案:关于人权问题-中国同性恋问题

http://elianghui.people.com.cn/proposalPostDetail.do?id=38466&boardId=2&view=1

  

これに目をとめた何亚福氏は、自分のブログで件の「一人っ子政策で云々」という持論を展開した。

  

计划生育导致同性恋增多—何亚福凤凰博客

http://blog.ifeng.com/article/4502068.html

  

(サーチナの記事ではここが曖昧だが、何亚福氏がトンデモ推論(もちろんこれは、僕の考えだが)を発表したのは、「強国社区」でも「2010E両会」上でもなく、自ブログだ。)

  

  

このブログ記事を、もう少し詳しく見てみたい。

中国語ができないので、エキサイト翻訳に働いて貰う。

  

以下は、段落ごとに機械翻訳にかけ、イミフな翻訳から意味を類推して要約したものだ。翻訳でも本当の意味での要約でもない。読む人は、決定的な誤りをしているかもしれないということを前提に読んで欲しい。

  

私は同性愛の問題について決して深く研究したこともないし、前はこの問題に関心を持ったことがなかった。が、最近「E両会」で人口問題関連の提案を提出したこともあって、「E両会」上の各種の提案を閲覧した。「E両会」で最も人気がある提案は何か?私は皆が関心を持つのは腐敗反対や遺伝子組み替え、住宅問題などだと思っていた。しかし予想外なことに、最も人気がある提案の1つは意外にも同性愛人権問題に関してだ。この提案は2月18日に提出され、3月10日までにクリック数が100万を上回り、支持の拍手は18万以上、署名数は23000人を上回る。むろん、この提案は「代刷流量」のようなものかもしれないが(ここよく分からない)。

  

1つのE提案だけで、同性愛がこのような大勢の支持を得ていると結論づけることはできない。だが今の中国同性愛者は30年前にに比べ非常に増加していることは否認できない事実あり、「同志」という言葉はある人々の間では同性愛傾向を持つ人のことだと理解されている。では、同性愛の増える原因は何か?前にも言ったように、私は同性愛問題についてあまり研究したことがなく、権威のある解答を出すことはできない。だが私個人の推測では、同性愛の増加には多くの原因があり、その1つは中国が1980年からの“1人っ子化”に基づく計画生育を全面的に推進したことだ。計画生育でどうして同性愛が増えるのかというと、2つの原因がある。・・・

  

続く内容は、サーチナの記事に詳しいだろう。

自身の推論を述べたのち、氏はこう結論づける。

  

計画生育は同性愛の増加を招き、同性愛の増加はまた出産率の下降を招く。同性愛者が子供を生むことがあり得ないからだ。同性愛の増加と普遍的な出産願望の低下は次のことを示唆する:中国が将来出産率を上昇させたいとしても、これはとても困難だということだ。中国は1991年以来出産率は低下を続け、すでに約20年になろうとしている。現在中国の出産率は非常に低いレベルにある。中国の人口の持続可能な発展のためには今中国が出産を激励しなければならない、と私は思う。

  

要するに、あまり同性愛について考えたことのない人が、ネットフォーラムで「同性愛者の人権」に賛同する人が多いのを見かけて、「同性愛者、多い!」とシンプルに驚き、ご自分の専門に牽強付会して「なぜ同性愛者はこんなに増えたのか」とブログで自説を上げてみた、というものだ。

  

このトンデモ説(僕のry)がどこかの中国語ニュースサイトで公表され、サーチナの記事はそれを翻訳編集したもの、という形跡は、今のところ僕には見つけられていない。サーチナの記事はこのブログにリンクを貼っているし、サーチナのソースもこのブログじゃないかと思う。もしかしたら、別に記事があるのかもしれないけれど、今のところ僕にそういう記事は見つけられていない。

  

はっきり言って、公のニュースになっていないとしたら、この人の名誉のためには良かったと思う。だって、バカ丸出しだもの。

  

まず発想のシンプルっぷりだ。同性愛者の人権に賛同を示す異性愛者も、いくらでもいる。ネットでは特にその意見を表明しやすいだろう。「同性愛者の人権に賛同=同性愛者=多い=同性愛者が多い!」って、バカもいいとこだ。

同性愛者が増加」って、これまで差別や抑圧の下で声を出せなかっただけだという想像力も働かないのだろうか。

そして推論の内容も,メチャクチャだ。

男が多い性比率の偏りが同性愛者増加の原因って、「同性愛者」は、男性同性愛者のことだとしか考えていない。ヘテロセクシストのおっさんがよくやる初歩的な間違いだ。

「男らしくない」「女らしくない」と同性愛者になる、というのも、みごとにヘテロセクシストのおっさん感覚である。

同性愛者が増えると出生率が下がる」というのも、クラシカルな偏見にもほどがある。90数パーセントの異性愛者の間の出産率の低下を引き起こす問題を放っといて、数パーセントの同性愛者の存在にやきもきしているなんて、この人本当に人口学者?と思う。

  

要するに、あまり同性愛に関心のない、むしろ偏見を持っている人が、ネットフォーラムで「同性愛者の人権」というテーマが好意的な支持を集めていることを意外に思い、「同性愛者が増えたんだねえ、でも、同性愛者が増えると人口が減って困るんじゃないの?」とブログに書きました、という話だと思うのだ。

  

僕も自分がよく知らないことにはバカな放言をする。ブログをやっていると、ネットという公の場でもよくやってしまう。ある分野の専門家も、自分がよく知らないことには変なことも言うだろうし、偏見も垂れ流すだろう。

日本のブログ界でもよくあることだ。

  

むしろ、サーチナがこれをもっともらしい記事に仕立てて発信していることが、僕は非常に不愉快だし、問題だと思う。

  

サーチナの記事は、これがよほど凝った皮肉でないとすれば、このトンデモ推論をそのまま受け入れていると言っていい。何氏は「権威ある回答は出せないが」と断っているが、この記事が権威を与えてしまっている。

  

最後の箇所、

  中国政府のこれまでの推計では、中国における男性同性愛者は約100万―500万人とされている。しかし、同性愛者の権利問題などに詳しい、李銀河氏や張北川氏らをはじめとする専門家は、その数は約3000万人に達し、今後増える可能性もあると指摘している。(編集担当:金田知子)

  

このソースは不明だが、中国同性愛者人口の試算に関するニュースはこれまでにも何度か出ている。

銀河氏による「300万人」という発言は、レコードチャイナの記事になっていた。

  

同性愛者は3000万人!意外と寛容な社会、同性結婚も合法化か?—中国レコードチャイナ

http://www.recordchina.co.jp/group/g12843.html

  

銀河氏は同性愛者やセックスワーカーの権利擁護を訴える有名な学者・アクティヴィストだ。これは僕の推測だが、中国同性愛者が置かれたクローゼット状態についてもよく知っているはずの方であり、「今後も増える」なんて言い方はしそうにない。

だが、サーチナの記事では、こうしたソースが、「一人っ子政策による憂慮すべき同性愛者の増加」という推論の裏付けを誘導するような道具に使われてしまっている。

  

この記事を日本語で読む人は、どんな印象を抱くのだろう。

その通りだ、と真に受ける人もいるだろうか。

中国ではこんな旧弊なことが言われるよね」と、(中国への偏見から)考える人も、いるかもしれない。

けれど、実際に起きていることは違う。

最近も大きなバックラッシュがあり、多くの困難を抱えているけれど、少しずつ同性愛者の生きる社会を開こうとする努力をしている人たちがいる。それがネットのフォーラムにも表れている。状況は、そういうことだ。

それを、人口学者の勘違い気味のブログ記事を引っ張ってきて、「同性愛者が増加し、人口減少が懸念される」という説を作り上げているのは、なによりサーチナのこの日本語記事の書き手だろう。

  

これは中国の問題というより、日本語のメディアの問題だと思う。

(サーチナ中国企業だが、日本語の記事は日本人スタッフの手により日本の読者を想定して編集されているのだろう。)

  

サーチナの記事で,僕が腹立たしいと思ったことは、もうひとつある。

  

「2010E両会」の青少年網絡聨合盟による「同性愛者の人権」の論説は、上海サーチナ(新秦調査)にも3月12日付で転載されている。

  

关于人权问题-中国同性恋问题— 新闻调查—新秦調査

http://www.searchina.net.cn/survey/detail.asp?id=2459

  

「感谢会员searchina提供此次新闻内容(サーチナ会員が今回この記事を提供してくれたことに感謝します?)」という一文を冒頭に添えての転載だ。1994年にようやく非犯罪化された同性愛中国で置かれた状況を訴える論説のあと、「あなたの周りに同性愛者の友人はいますか?(你身边有同性恋的朋友吗?)」というウェブアンケートがついている。

  

日本語サーチナの記事の関連記事の

あなたの周りに同性愛者の友人はいますか?-中国人調査

http://www.searchina.net.cn/survey/result_jp.asp?id=2459

  

というところから飛べる。

けれど、この日本語版の方では、青少年網絡聨合盟の論説は全部省略されているし、あまつさえ、タイトルは「中国人口学者、一人っ子政策同性愛者を増やした?」になっている(中国語の方は、ちゃんと「关于人权问题-中国同性恋问题」だ)。

日本語だけ読む人には、「あなたの周りに同性愛者の友人はいますか?」というアンケートが、人権問題に関連しているとは思わないだろう。「どれほど同性愛者が増えているのか?」の調査のようだ。

  

人権問題が語られているということを、どこまでも無視したいのだろう。

  

3月13日追記

昨夜勢いでまとめたメモだが、いろいろと問題がある気がする。

僕は、サーチナの記事について、

同性愛についてあまり考えたことのない,偏見を持つ学者の勘違い的なブログ記事を、サーチナがもっともらしい説のように取り上げている」

ということを強調した。

  

けれど、現在の中国で起きているという性比率の不均衡が、同性愛者の存在が社会の脅威であるようなまことしやかな言説に利用される、同性愛者に対する偏見や抑圧を正当化に結びつけられるというのは、ありうること、現に起きていることだというのは事実だ。

中国語メディアを読む力はないが、1月11日、ロシアの保守的タブロイド紙が、中国同性愛解放を人口問題に結びつけて危険視(というか、揶揄?)するような記事を発表していたことを、遅ればせながらGEIRO.orgで知った。

  

中国同性愛者がおかれている状況、そしてロシアゲイ殺人事件—GEIRO.org

http://geiro.org/2010/01/17/chinaandrussia/

  

何氏のブログエントリやそれを取り上げたサーチナの記事は、中国での同性愛者に対するバックラッシュ正当化に、人口問題不安が駆り出されてゆく(「同性愛者が増えると人口が」というのは本当に古くさい偏見なのだが、新規にドレスアップして、もっともらしく肯定される)という潮流の表れかもしれないのであり、僕の見方は、それをあまりに矮小化しているかもしれない。

  

けれど、サーチナの記事は、そうした流れを捉えるのではなく、むしろ「作ろうとしている」性質のものだという点で問題なのは確か。

  

あと、日本語による日本語・日本社会での語られかた、読まれかたの問題。

何氏のように、同性愛について考えたことはない、と言いながらいい加減な意見を自ブログで述べる人は、日本でも珍しくない。

同性愛者が増えた」「でも同性愛者が増えると生殖が」とか、特に考えるでもなく発言する人に遭遇する例は、枚挙にいとまがない。

それをニュースに取り上げ、かの国で「専門家」に裏付けられた仮説のように発信するメディアの問題、それが一つ。

そしてそれが日本社会で、「また中国でおかしなことを言っている」というようなかたちで受け止められること。

Yahooニュースには、いつものことだが、いくつものチャイナフォビックなコメントがついている。

そのうちの一部は、このトンデモ推論に対する呆れの表明だ。

そこには、伝統的・保守的な中国では、こんな奇妙な説が出るのも不思議はない、とでもいうようなニュアンスが伴う。

しかし、個人ブログの自説に過ぎなかったこのトンデモ推論を、中国で行われている同性愛者権利運動のコンテキストをわざわざ省略して、発信しているのは日本語メディアだ。

日本語社会・日本社会の偏見やホモフォビアの発露なのに、その責任は“当然ホモフォビックな国であろう”中国に負わされる仕組みになっている。

僕が最も気持ち悪く思われるのは、この点だ。

それをうまく説明できるとよいのだけれど。

2010-01-04

ミス・マープルと「クイーア」

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ミス・マープルは,費用のこと、遠すぎること、旅の途中のさまざまな困難、セント・メアリー・ミードの家を留守にしなければならないことなどを理由に、行き渋った。レイモンドがいっさいの問題を解決してしまった。本を執筆中の彼の友人が、田舎の静かな家を一軒借りたがっていた。「家のほうはその男がちゃんと面倒をみてくれますよ。彼は家事に関してたいそう几帳面な男なんです。実は、クイーアでしてね。つまりその—」

 彼はいささか当惑していいよどんだーだがいくらジェーンおばさんでも、同性愛(クイーア)のことくらい聞いているに違いない。

  

アガサ・クリスティー/永井淳訳『カリブ海の秘密』(ハヤカワ文庫), p.13.

  

  

アガサ・クリスティで、いきなりクィアに出会った。クリスティ作品に「クィア」という言葉が出てきたことって、他にもあるんだろうか。クリスティを全部読んでいるわけではないので、僕は知らない。

  

英語圏の「クィア」という言葉の使われかたの変遷について、いまさらだがウィキペディアで確認してみる。

  

1904年のシャーック・ホームズ「第二の汚点」では、この言葉はまだ完全に非性的な文脈で使われていた。(中略)・・・しかし、この作品が出版された時代には、この言葉はすでに性的倒錯者(特に同性愛者と/または男らしくない男性)の含意を持ち始めていた。それは19世紀末にはすでに知られていた。この意味でこの言葉が使われている初期の記録は、第9代クイーンズベリ伯爵ジョン・ショルトー・ダグラスの息子アルフレッド・ダグラス卿[オスカー・ワイルド同性愛裁判のきっかけを作った恋人]への手紙である。

その後、ほぼ20世紀を通して、「クィア」は男性とのアナルセックスやオーラルセックスで受け身または受動的になると信じられてきた男らしくないゲイ男性や、その他の非伝統的なジェンダー的振る舞いを見せる者に対する軽蔑的な言葉として盛んに用いられた。そのうえ、「挿入者」の役割を果たしていた男らしい男性は、しばしば「ストレート」と考えられた。近代アメリカで初めてこの言葉が出版物で用いられたのは、『Variety』誌である。

In the 1904 Sherlock Holmes story The Adventure of the Second Stain, the term is still used in a completely non-sexual context (Inspector Lestrade is threatening a misbehaving constable with "finding himself in Queer Street", i.e., in this context, being severely punished). By that time that story was published, however, the term was already starting to gain its implication of sexual deviance (especially that of homosexual and/or effeminate males), which is already known in the late 19th century; an early recorded usage of the word in this sense was in a letter by John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry to his son Lord Alfred Douglas.

Subsequently, for most of the 20th Century, "queer" was frequently used as a derogatory term for effeminate gay males who were believed to engage in receptive or passive anal/oral sex with men, and others exhibiting untraditional gender behavior. Furthermore, masculine males, who performed the role of the 'penetrator' were in some cases considered 'straights'. [3] The first time it was used in print in America in the modern era was in Variety magazine

  

http://en.wikipedia.org/wiki/Queer#Traditional_usage

  

クリスティのミス・マープル・シリーズが書かれたのは1930ー1971年、『カリブ海の秘密』は1964年の作品だ。まさに「クイーア」が「セックスで受け身になる男らしくない男性同性愛者」「伝統的ジェンダーを逸脱した者」に対する軽蔑的な呼称として用いられていた時代のただ中である。和訳するなら「おかま」とほぼ同じ、上の翻訳も「実は、おかまでしてね、つまりその—」にすればいいじゃないかとも思うが、「クイーア」としたのは、「ジェーンおばさんは聞いたことがないかもしれない言葉」のニュアンスを出したかったのだろうか。「おかま」を聞いたことのない日本語読者は少なそうだ。

  

上の引用に登場する「クイーア」には、あくまで日本語訳を読んだ感触としてだが、蔑称的なニュアンスは感じられない。レイモンドの友人の作家の話をしているのだから、まあ当たり前だが。

ミス・マープルの甥のレイモンド・ウェストは、ミス・マープルによれば「どうにも虫の好かない人間たちが、いかにも妙ちきりんなことばかりするような本」(前掲書, p.10)を書いている現代小説家である。クリスティはどんな作家をイメージしてたのか、僕はなんとなくビート世代っぽいのを想像していたが、1930年代からおまえの小説には不愉快な人間ばかり出てくるとミス・マープルに言われているので、たぶん違うだろう。

とにかく、規範に縛られない感性を持ち、「クイーア」であることをカムアウトしている同業者の友人もいたりして、ヘテロセクシストではないリベラルな思想の持ち主がレイモンドである。というか、その進歩的なリベラルさを示すために、「クイーア」がここで登場しているのかもしれない。

  

けれど、このレイモンドのリベラルさは、あらかじめミス・マープルの言葉に出さないぼやきに腐されているのだ。

カリブ海の秘密』のオープニングは、「クイーア」が登場するとともに、セクシュアリティについて随分饒舌な語りのある箇所である。

  

“セックス”などという言葉は、ミス・マープルの若いころは人の口の端にのぼらなかったものだ。しかしセックスそのものはふんだんにあったしーただ今ほど話題にならなかっただけだー当節よりもはるかに享楽されていた。あるいは少なくともミス・マープルにはそう思えた。ふつうセックスの享楽には罪悪のレッテルが貼られるが、それでも現代の様相—セックスが一種の義務になりはてている様相に比べれば、そのほうがずっとましだという感は否めなかった。

  

田園生活が牧歌的だと考えるのは見当違いもはなはだしかった。レイモンドのような人はその点についてたいそう無知だった。教区におけるお勤めの間に、ミス・マープルは田園生活なるものの現実を知りつくしていた。それについて書くことはいわずもがな、人前で話したいとも思わなかった。—がとにかくそれらを知ってはいた。自然なもの不自然なものとりまぜて、いたるところにあるセックス。婦女暴行近親相姦、あらゆる種類の性的倒錯(その中には、これまでに何冊も本を書いているオクスフォード出の聡明な青年たちでさえ、話に聞いたこともないと思われるような倒錯まである)。

  

前掲書, pp.10-11.

  

  

これは、クリスティ自身の考えだろうか、違うだろうか?

ミス・マープルはクリスティの祖母がモデルだというが、『カリブ海の秘密』のころにはクリスティは70代、ミス・マープルに近いスタンスで時代を眺めていたかも知れない。分からないことだが。

  

ミス・マープルの時代のセクシュアリティの文化のありように共感するわけではない。結婚以外のセクシュアリティが存在するとしても、それが沈黙によって性暴力と一緒にアンダーグラウンドに隠蔽されようとしている社会では、僕は生きて行くことができないから。だが、面白いな、と、このくだりが興味深く思われるのは、カリカチュアライズされたミス・マープルとレイモンドのセックスをめぐる世代的断絶が、伝統的な性の規範、対、解放という図式ではないことがはっきりと描かれているところだ。むしろ、飯野由里子さんが紹介している性の言説をめぐるフーコーの理論をなぞっているようにも見えるのだが、見当違いだろうか。

  

フーコーによると、近代に起こった「性についての、文字通りの言説の爆発」によって、性について「どのような時」に「どのような状況」のもと「どのような話し手の間で」語られるべきなのかに関する統制が行われるようになった(フーコー1986:25-26)。そして、こうした統制の結果,一方では「異性愛に基づく一夫一妻制」が「語られることのより少ない」「一つの基準として機能」するようになり、他方では、この基準から外れるものはみな「周縁的性現象」として「自分がいかなるものであるかという難しい告白をする番」(ibid:25-26)とされたのである。したがって、フーコーにとって「周縁的性現象」の出現とは、性に関する言説の抑圧が緩んだ徴候などではない。むしろ、それは性に対する「権力の形式」が「禁忌」から「管理」へと移ったことを意味している。

  

古風なミス・マープルを半ば憐れみながら、むしろミス・マープルと彼女が暮らす村の生活に性を忌避する規範を(あたかもそれがあって当然であるかのように)押しつけ、ミス・マープルの前で「クイーア」である友人のことをあたかも語ってはいけないことのように「いいよど」んでいるのは、じつはレイモンドの方なのである。一方、セックスについて何も語る気はないミス・マープルは、あらゆる種類のセクシュアリティが小さな村にも当たり前に存在していることを知っている。

  

僕が知る限り、クリスティは異性以外の性を愛する人間も、身体とは異なるジェンダーを生きる人間も描かなかった。クリスティ作品は、基本どこまでもヘテロノーマティヴだ。

けれど、クリスティの世界に、ヘテロノーマティヴなジェンダーセクシュアリティを問い直す契機がなかったとはいえないだろう。クリスティが1964年、74歳のときに「クイーア」という言葉をどんなイメージとともに使ったのか分からないけれど、なんだかその言葉は、構造を挑発する亀裂を起こす力を持っているような気がする。

2009-10-10

城市郎『発禁本』「同性愛関係書・同性愛文献」

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ネット落ち中に読んだ本から、メモ。

  

発禁本 (福武文庫)

発禁本 (福武文庫)

 

  

発禁本蒐集の大物・城市郎の本を読むのは初めてだった。

戦前の日本で行われていた検閲(大日本帝国での検閲は、日露戦争後開始されたらしい)についてはなにも知識がなかったが、検閲対策織り込み済み(つまり伏字)の出版システムの狂奔、そしてそれが「時局」を理由に激化してゆくありさまに、とにかくただ驚いた。

  

ビブリオフィル、ビブリオマニア(愛書狂)の人の仕事だから、検閲史の教科書として読むにはもしかしたら偏りもあるかもしれない。かずかずの「風俗壊乱」軟派本(恋愛モノ、エロ本)への愛情あふれる解説には、やはりジェンダーセクシュアリティに関するストレートで男性中心的なトーンを感じる。でも、1冊1冊の本、そのひとつひとつの伏字や書き込みのミクロの集積から再構成した検閲と表現の格闘の歴史には、リアリティとすごみがある。

(たぶんこういうのは研究者や思想家より、アナーキーなマニア、オタクならでは到達できる境地なのかもしれない)

  

読解がクイズ解きなみに困難なほどの伏字・削除で「満身創痍」になって、なお発禁処分を受ける本。

上林暁『伏字』に描かれた、  

 発禁につぐ発禁で、雑誌編集者は神経過敏になり、出てきたゲラ刷りに印刷所で容赦なく伏字の筆を入れたものだったが、消しあぐねる文章にぶつかってその文字を抹殺したり蘇生させたりしているうちに、活字がしまいには”蟲、蟲、蟲、そんな不気味なものに見え”てきた、という筆禍恐怖時代の校正エピソード

  

「生きてゐる兵隊 石川達三」p.83.

  

検閲逃れのためにウィーンの小間使いがエロ場面になると

  

噯喲、フランツさん、お願ひですから這麼個様子。不好不好、打算做那個様子。噯々、もう那麼。

  

輪舞 シュニッツラー」p.188.

  

中国語で叫び出すナゾの翻訳体が編み出されたり。

  

文章に洒落っ気があるのであまりの滑稽さに笑ってしまうのだけれど、想像を絶する表現規制が身近にあった時代のあとに生きているんだな、と思わされる。

  

(そういえば、昔の小説を読んでいたとき、ときどき外国語単語が挿入されているのがなんだか妙な感じで、気取ってんのかなあ、かえって恥ずかしいなあと思っていたことがある(谷崎潤一郎「少年」で、「尿」を「urine」と言ってたり*1 )。書かれている内容によりけりで意図は一つじゃないだろうけど、外国語で当局の目をさらっと誤魔化す、検閲逃れの手段だったのかもしれなかったわけね。そういうのが感じ取れないって、気楽というか、言論規制や検閲の歴史を知らないせいだなと思った。)

  

56章のうち、城氏は、「同性愛関係書・同性愛文献」(pp.193-202.)の1章ももうけている。取り上げられている作品は4作。

  

紅夢楼主人『美少年論――同性色情史』(雅俗文庫、明治44)

花房四郎(中野正人)『男色考』(文芸資料研究会編集部、昭和3)

同『同性愛の諸々相』(文芸市場社、昭和4)

綿貫六助の男色小説(『変態資料』昭和3)

  

うち最初の3作は、古川誠・赤枝香奈子(編・解説)『同性愛関連文献集成 全3巻』富士出版、2006、第1、2巻で復刻されている。

http://www.fujishuppan.co.jp/kindaishi/douseiai.htm

(僕は持ってないので、読んでないけれど)

  

発禁処分を受けたのが4作だけ?城氏のコレクションにあるのがこの4作?ちょっとよく分からないのだが。

明治期以降、西洋の性科学の影響や近代のジェンダーセクシュアリティ観の変質のもと、「同性愛」について語る本や文学が次々と現れたーそしてそれが、現代につながる「同性愛」認識を作り上げていったーということは何となく知っていたが、そうした出版は、「検閲」とはどういう関係にあったのか。

  

ということを考えるべきところなのだが、とりあえずその本がどんな本だったかということに、関心が向く。

   

紅夢楼主人『美少年論――同性色情史』(雅俗文庫、明治44)

城氏の言に従えば、「最初の筆禍」を受けた同性愛文献らしい。

作者の素性は不明だが、出版社はあの宮武外骨の社名。「紅夢楼主人」ももしかしたら宮武外骨の筆名かもしれない、と筆者は推測している。

「同性色情」は、「同性愛」という訳語が大正期に流布する前のhomosexualityの訳語のひとつだ。

  

内容は

書名どおり男色論で、欧州では峻烈な鶏姦罪があるが、日本改正刑法では男色罪を規定していない。しかしその道徳上の責任は買娼、畜妾、野合の罪と径庭なし、というのが論者のマクラで、以下、男色の発生動機、その一般的特性から、東西各国の鶏姦史に筆を及んだものです。威風地を払うような文章でガクガクの論述が展開されています

  

同性愛関係書・同性愛文献」p.194.

  

「鶏姦罪」の話から入っているのが興味深い。

日本で鶏姦罪が施行されたのは、明治刑法制定までの1873−1982年(明治6−15)の約8年間。鶏姦罪が撤廃された背景には、近代法制度整備のためフランスから招聘されたボアソナードの助言があったという(フランスでは「ソドミー法」は1791年刑法以来撤廃されていた)。じゃあこのとき明治政府法律顧問が英国ドイツから来ていたら話は違ってたかもしれないと思うと、日本の運の良さを感じるのだが、しかし前川直哉さんの論文によると、清朝中国刑法を範に導入された鶏姦罪の明治刑法からの削除にあたり、ボアソナードは「鶏姦を犯した者は、法律によらずとも人民間において十分な社会的制裁を受けるため、刑法で処罰対象とする必要はない」と提言したそうで、同性間関係が社会的に否認されることを当然の前提として話が進められていたのだな、と思わされる。

そうしたニュアンスは、『美少年論』の前置きにもうかがわれる(世間向けの体裁を繕った、ただのエクスキューズの可能性もあるが)。

  

「威風地を払うような文章でガクガクの論述」ってどんなことを言ってるのか、全体の論調は本を読んでみなければ分からないのだけれど、城氏はこんな箇所を一例に引用している。

 

男色者の代表する色情的方面は、情に屈し、恋に関する系統に非ずして、実に慾、即ち猛烈なる肉慾の部分に属するもの也・・・(例一)彼は中夜眠覚めて、色情の勃発に煩悶せり、其傍らに一少年あり、衾を並列して臥す、衾は捲くれ、寝衣は解けて、片足をベッドの側に露はすを見るに、白く滑らかにして、嬌柔女性のものの如し、玆に於て、意気更に勃発抑ゆべからず、遂に之を呼び覚し、切情を語りて之を挑むや、彼れ愕然として逃避せんとせり、而して傍ら幸に人なし、彼は再三勧説し、果ては威嚇圧伏して、遂に其望を達せり

  

なんか、たしかに「威風地を払う」名調子ではある。が、「男色者の代表する色情的方面」が「実に慾、即ち猛烈なる肉慾の部分」って、なんなんだ。「情に屈し、恋に関する系統に非ず」って断言されても、「男色家」に対してはその「系統」を表に出すことが認められていなかったからじゃないのか。見えないからって、「非ず」と断言されても。

「肉慾」より「情」や「恋」が上であるかのような考えかたは鬱陶しいし、「実に慾」をサックリ肯定できるセックスカルチャーはむしろすごく好きなんだけれど、それは別に自制できずに人を襲うというのとは全然違う。「同性愛者に襲われる~!」という神話は、明治44年にまで遡って根深いのかなと思わされる。

  

花房四郎(中野正人)『男色考』(文芸資料研究会編集部、昭和3)

  

「第二の筆禍同性愛文献」(検閲史上第2のって意味なのか、城市郎コレクションでってことなのか、分からないんだけど)は、昭和に飛んで花房四郎(中野正人)の2作品。

中野正人が昭和初期の艶本出版史でどういう位置を占めた人物かってことは、城氏が熱っぽく語っている。ウェブ上では七面堂究斎氏の「閑話究題 ×××文学の館」(地下本研究の、すごいサイト)「地下本基礎講座」で詳しく知ることができる。

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Lecture/Lect03.htm

  

紅夢楼主人著『美少年論』に負う所が多いようですが、古今集から松帆物語、末摘花、西鶴男色大鑑といった文献からアレンジして、戦国時代衆道歌舞伎役者と男色趣味、陰間茶屋などの由来について、大系的考察を加えたもの

  

同性愛関係書・同性愛文献」p.194.

  

ということは、『美少年論』と同じ傾向の本らしい。

だが、「男色」(女性の親密な関係もそうだが)を語るとき、とたんに文化人類学的というか標本収集的というか、結局のところ同性間性関係を「外部」から興味深げに眺めコレクションする視線になるのは、なぜなんだろうな、ということも、漠然と思う。

  

現代でも「同性愛」というとすぐ条件反射的に「日本では昔から仏教の稚児愛が云々」「戦国時代衆道が云々」という発言が出ることはおなじみだ。「同性愛」というとそれに類例する歴史の事例をまくし立てて(だがそれが「男性同性愛」に限られていることに気づかない人も多い)、日本社会が(西洋社会と比べ)同性愛嫌悪を免れているかのような構図を作り出したがる言説が、どのように作られてきたのか(歴史に関する一見客観的な言説も、案外歴史的に作られてきたのかもしれない)、考える余地があるかもしれないなと、ときどき考える。

  

同性愛の種々相』(文芸市場社、昭和4)

もう一つ、筆禍に遭った花房四郎の仕事は、女性同性愛に関するもの。

城氏は、アルベルト・モル『同性愛研究』の抄訳(というか、「部分部分を勝手に抜き出して組みたてるポンコツ屋的解体翻訳」)に同定している。

   

アルベルト・モルAlbert Moll (1862–1939)はマグヌス・ヒルシュフェルトと同時代に活躍したドイツ性科学の創始者の1人。

http://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Moll

http://de.wikipedia.org/wiki/Albert_Moll

http://www2.hu-berlin.de/sexology/GESUND/ARCHIV/MOLL.HTM

http://www2.hu-berlin.de/sexology/GESUND/ARCHIV/SEN/CH17.HTM#b12-MOLL,%20ALBERT

 

  

しかし自身同性愛者として同性愛者の擁護に尽力したヒルシュフェルトとは対立関係にあり、同性愛を病気と断定してセラピーを推奨し、同性愛の社会的・法的容認には反対の立場を取っていたらしい。

  

彼の著書『同性愛研究』とは、Die Konträre Sexualempfindug(1891)のことだろうか?

http://www.schwulencity.de/mollkontraeresexualempfindung.html

邦訳では、戦後にアルベルト・モル/上月駿哉『同性愛』(東京ライフ社、1958年)が見つかる。

asin:B000JAW0JA

同じ本かどうか見てみないと分からないけれど、すくなくともこの人の仕事が戦後まで科学的同性愛研究として受け入れられたということなんだろう。

  

同性愛の種々相』は、

そのセルフ・サービスにおける最高の湿原地帯はどこに存するのか、といったことに始まり、その欲望において恒なき女性には、同じセックスにしか興味を示さない先天的なトリバード、異性に対してしびれることも勿論である偶発的なサッフィスト、この二種類がある、といった立論がしかれます。以下、女性の同棲生活、トリバードにおける男性的要素、フェラトリー、女子の色情過度など、しめて十一章です。

  

…特殊の娼家に於ては、女票客の婦人連が彼女たち自身の惜愛してゐる肉体美の鑑賞を行ひ、賞を賭けてその競争を行ふのである。さうした行事の結果として彼女たちを駆つてトリバデイズムへ赴かしめてゐることは亦自然の勢である。先天的な性的欠陥によるサツフイストでない若い女たちは、サツフイスムの房事に対して最初のうちはある嫌悪の情を示し、それを行うふことを拒むものである。しかし大多数の者は故意に酒を盛られて泥酔状態に陥れられる結果として大抵屈服してしまったのである

 この引用では全貌をうかがえないかと思いますが、内容は医学研究的にかなり直裁です。

  

同性愛関係書・同性愛文献」pp.198-199.

  

城氏は「なかなかに首尾一貫した同性愛論です」と評しているが、少なくとも上記の引用箇所からは、その女性同性愛関係に対する偏見の根深さに驚かされる。医学がまことしやかに作ってきた女性同性愛像が、露骨にあらわれている。

  

クラフト=エービングは同性愛を進行する病のように捉えたが、それが「真の同性愛」か「仮の同性愛」かということは、こと女性同性愛に関して大きな関心事項となったらしい。

それは、女性のジェンダーセクシュアリティに対する、近代的な管理のシステムと関わっている。

近代社会が女性に求めた役割とは、異性愛家族で妻、母になることだった。自由な恋愛はもちろん、男性に対し女性が性的主体であることが想定されない社会では、結婚まで女性が女性と親密な関係を結ぶことは「友情」に留まる限り許容されたが(アメリカで女性同士の「ロマンティックな友情」が異性愛体制を補完する役割を果たしたように)、それは女性にしか関心を持たない「同性愛者」とは違うのだ、ということが執拗なぐらい強調された。日本で家族や性が近代化されてゆくなかで、「社会問題」として注目を浴びた「同性愛」は実は女性同性愛だったが、それは同性愛嫌悪というより、女性のセクシュアリティを統制しようとする欲望が働いていたと言うべきなのだろう。

  

同性愛の種々相』の引用箇所には、「真の同性愛=トリバデイズム」「仮の同性愛=先天的な性的欠陥によるのではないサツフイスム」という分類に加え、後者が同性愛関係を持つのはトリバードにレイプされるからだ、という偏見の上塗りまでついている。「同性愛者に襲われる〜」女性版である。

城市郎氏がわざとそういうエグい箇所を引用してきたのかもしれず、原典を読まずに判断してはいけないが。

しかし、女性同士の親密な関係を「思春期の一過性のもの」「男を知れば変わるもの」として「レズビアンではない女性同士のロマンティックな関係」をもてはやしたり、逆に「真性」レズビアン異性愛女性をレイプするセックス・モンスターとして描いたり、というのは、今でも珍しくないことじゃないだろうか。

「舶来」の理論を吸収しながら、日本社会の女性同性愛イメージがどんなふうに作られてきたのか、窺い知ることができる一節だ。

  

綿貫六助の男色小説

最後に紹介されているこの作品は、個人的にちょっと面白い。

前3作品が人類学的・医学的に外部から「同性愛」を観察しているのに対し、これは言わば自分が求める欲望の表現としての男性同性愛表象だからだ。

   

綿貫六助という作家を僕は知らなかったのだけれど、検索すると

1880. 4. 8(明治13)生

1946.12.19(昭和21)没

小説家・評論家。群馬県生れ。

陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に従軍。

1918(大正 7)早稲田大学英文科卒業。

1924. 5.(大正13)長編小説『戦争』を発表。

http://fine-vn.com/cat_53/ent_58.html

というデータが出てくる。

   

『戦争』聚芳閣、大正13

『探偵将軍明石元二郎 日露戦争牒報秘史』河出書房、昭和12 (なんかこれ、読んでみたいな)

『霊肉を凝視めて』(短編集)自然社、大正12

  

などの作品があり、群馬県出身の作家としての評価も受けているようだ。

ここでの関心は、彼が残した同性愛小説なのだけれど。近代文学史でホモエロティシズム表現を残した有名な男性作家が、たいていの場合その実際のセクシュアリティがどうだったのかってことについては沈黙が守られている(結構いろんなエピソードは知られているんだけれど)のに対し、この人は見事隠れなき同性愛者だったらしい。

  

彼は陸軍教導団を出て陸軍大尉にまでなった人です。職業軍人を首切られて―-その理由は分かりませんが、連隊旗手をやっていた時分、老連隊長と契りを結び、連隊長が美少年従卒をひきずりこんで彼をシャットアウトしたことから嫉妬して、英式ピストルをもって連隊長を射殺しようとした、と彼は回想しています―-早稲田文学部にはいり、広津和郎三上於菟吉らと机を並べていたこともあり、長編『戦争』で文壇に異才を認められた作家です。

 古い記録(『談奇党』第三号・昭和六)でも、後生大事に陸軍にいれば今頃大佐か少将にはなっていた、また『戦争』を出発点に精進しておれば文壇の大家にもなれたが、薩摩ッポでもないのに、若い時からどうしたことか男色常習者で、そのため没落の生活を送っている、と評されたくらいです。

  

同性愛関係書・同性愛文献」pp.199-200.

  

城氏の筆がそう見せるのかもしれないが、なんか、すがすがしいオトコ好きっぷりにココロが揺さぶられる (英式ピストル持ち出すのはどうかと思うが)。

あと、この人、徹底して老専らしい。

紹介されているのはエログロ雑誌『変態資料』に昭和3年に掲載された小説だが、そのあらすじは

前半分が温泉宿などで見初めた何人かの爺さんとの交渉の回想、後半が自家にひきとった爺さんとの交遊・交情記です。

(略)

 小説の主人公は綿貫六助という作家で、彼は兵さん[エッチした60歳の農夫]より十二若く、従って四十過ぎだというのに兵さんが女どもに口をきいたりすると、この初老の主人公は身をよじって嫉妬する始末です。

 小説の後半の相手は、作者が十年前に契ったことがある牧場の爺さんで、再会してみると、耄碌していて、爺さんをよそに通じた老妻と娘婿、この二人に下男同様の扱いを受けています。

 “原稿売れの渉らぬ下層作家”である作者は、生活不如意のなかで、爺さんへの恋慕と憐れみから、彼を引きとって同棲し、傍ら訴訟を起して爺さんを虐待した二人の不義者に制裁を加える、という筋で、折よく作者の妻君は愛想づかしをして家出をしていますが、二人の大きな息子は残っているその家で、作者と爺さんの細やかな交情が営まれるわけです。

  

いろいろ突っ込みどころはあるが(妻が「折よく愛想づかし」って、なんだ)、近・現代の有名どころの男性同性愛文学の多くが懐古的、「異端」や「逸脱」の美学的領域に逃げ込んだのに対し、直球でタイプの男に欲情しながらヌケヌケと生きている感じになんだか魅力を感じる。

   

城氏はなぜか作品タイトルを上げていない。

『変態資料』については「閑話究題×××文学の館」が総目次も詳しく教えてくれるけれど、

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Magazine/Shiryo/Shiryo.htm

綿貫六助の作品は

「晩秋の懊惱」3巻1号(昭和3)

「慘めな人たち」3巻2号(〃)

「丘の上の家」3巻3号(〃)

「静かなる復讐」3巻4号(〃)

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Magazine/Shiryo/Shiryo3X.htm

 

の4題。

  

『変態資料』は『近代日本のセクシュアリティ』を刊行しているゆまに書房から復刻が出ているし、

http://www.yumani.co.jp/np/isbn/4843321869

  

「晩秋の懊悩」「丘の上の家」は『近代日本のセクシュアリティ 第35巻―アンソロジー 文藝作品に描かれた同性愛』に収録されている。

http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843332078

  

(馬鹿高くてとても手が出る本じゃないが、)読もうと思えば読めるわけだ。

 

*1飲尿プレイ描写。「少年」1911年(明治44)の作だから、その当時の検閲が昭和期ほど基準不明の凄まじいものだったのか分からないけれど。

島村輝島村輝2016/04/01 13:11『変態・資料』の復刻を手掛けた、島村と申します。綿貫六助は、セクシャリティーの点以外でも、いろいろ面白い個性ある作家で、今日もっと知られてほしいと思います。取り上げていただき、ありがとうございました。

2009-07-03

日本の女性同性愛表象・言説の近現代史にかかわる研究について、メモ

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現在の日本社会の男性同性愛イメージがどのように成立してきたのか、多々知らないこと・疑問に思うことがあるのだが。

さらに知るところの少ない女性同性愛・レズビアニズム表象・言説について、どんな研究があるのか。

まだいろいろあると思うけれど、取りあえず知ったところからメモしていく。

  

1910-20年代 明治末期〜大正期 西洋性科学「同性愛」言説輸入の時代  

肥留間由紀子「近代日本における女性同性愛の「発見」」『解放社会学研究』17(2003)

  

赤枝香奈子氏の研究

http://queeringme.g.hatena.ne.jp/Ry0TA/20090629/p1

  

1930-40年代 昭和初期・第二次大戦

??

  

戦後-1960年代

杉浦郁子「一般雑誌における『レズビアン』の表象—戦後から1971年まで」『現代風俗学研究』11(2005), pp.1-12.

  

1970-80年代 ウーマン・リブ期から90年代ゲイ・ブーム期前まで

杉浦郁子「1970、80年代の一般雑誌における「レズビアン表象レズビアンフェミニスト言説の登場まで」

矢島正見(編著)『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部, 2006, pp.491-518.

参考

杉浦郁子「日本におけるレズビアンフェミニズムの活動--1970年代後半の黎明期における」『ジェンダー研究』11(2008), pp.143-170.

  

そのほか:研究者など

黄綿 史 さん

http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/wakate/detail.cgi?ID=4

研究テーマ:近代日本における女性同性愛言説の誕生

2009-06-23

終わらない隠喩

| 終わらない隠喩 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 終わらない隠喩 - Ry0TAの日記

  

ざっと書くメモ。

  

このところ、「異性愛者男性がゲイを嫌う自由の主張」にネットで連続で遭遇している。

ゲイを嫌う自由」について考えて書いたのは、もう2年前のことだ。

最近また噴き上がるように登場している「ホモが嫌いで何が悪い」ということさらに声高な主張のありようについては、考えるところはあるのだが、今は別のことが気になっている。

  

ホモ」(ゲイではなく、感覚的にはこちら)に対する「自由な嫌悪」を開き直り的に露出することや、ホモネタを弄ぶことを正当化する理由として、当然のように「HIV」が持ち出されることだ。

  

ぼくがげいのひとをきらいなりゆう

同性に恋愛対象として見られているかと思うと気持ち悪い。掘りも掘られもしたくない。

男同士が愛し合っているのを見るのがイヤ。キモイ。よそでやって欲しい。

肛門性交のためかHIV感染者が多い。レイプされたらと思うと、、、気持ち悪いのとあわせて最悪。

http://anond.hatelabo.jp/20090521165955

冗談じゃない!僕は清く正しいバイヘテロセクシャルだ。*2三度の飯より女の子のシリを追いかけるほうが好きだ*3。エイズまみれの変態ホモ野郎なんて身の毛もよだつ。 

http://d.hatena.ne.jp/napsucks/20090616/1245089228

  

少し状況は異なるが、

[言い訳がましく言わせて貰う]

……

ただね、HIVとかそっち方向にどうしても結びついてしまって怖い訳だ。

HIVは薬はあれど結局は完治しない訳だ。ウイルスの性質上、薬をサボりやすい自分のような人間が感染したらアウトだ。

アナルセックスの感染率は高いとは言うが、それを含めると、余計男性同性愛者間の感染状況が酷く思える訳だ。

http://h.hatena.ne.jp/Terara_kirara/9234087900407506264

  

実際のところ、ノンケ男が僕らを毛嫌いするのは自由だし、「気持ち悪いホモ」の凝り固まったイメージに取り憑かれて右往左往しようが、知ったことではない。だがその多数派の嫌悪は明らかに暴力たりえるので、「個人的な自由な内面の嫌悪」を周囲に流出させないコントロールを社会的礼儀として身につけてもらえるか、そこにかかっている。

(現在の声高な「ホモを嫌いネタとして弄ぶ自由」は、あきらかに「市民権」を持っていて、「ホモを嫌いで何が悪い」と叫ぶ人は、明らかにそのコンセンサスを当て込んで—世間は自分に味方するー言っているのだ。本当に周囲の圧力を押してまで自分の自由を叫んでいるわけではない。)

  

だが、その正当化HIVを持ち出すこと、これはどうなのか。

ホモ嫌い」は勝手だ。いくらでも嫌えばいい。だが、「ホモ嫌い」を正当化する言葉が、当然のようにHIVを持つ人を「感染源」としか看做さないような嫌悪と偏見を前提としている。

こちらのほうが、遥かに深刻だし、「ホモ嫌い」のノンケ男たちであれ現在の社会で当然持つことを求められている社会的義務と抵触しているのではないか。それに大勢の人が気づいていないように見えることが、僕には大きな問題に思われる。

  

またあとから続きを書く。

ゆんゆんゆんゆん2009/06/27 10:41血友病患者のこともあり、HIV流行当初に比べれば男性同性愛とHIVが結びついているというイメージは薄くなっていると思います。それでもなお、男性同性愛者が有意にHIV感染率が高いというのであれば、偏見をなくすためにはなぜそうなるのかを明らかにする必要があるかと。
また、「ホモネタ好き」と「ヘイトスピーチ好き」は違うと思います。後者が本当に市民権を得てしまえば、前者の肩身は狭くなると思います。厳密には、「ホモネタ好き」の人に弄ばれているのは「男性同性愛者表象」というよりは、「過剰な男らしさ」の方がしっくりくる気がしますが……。

Ry0TARy0TA2009/06/29 19:34>ゆんゆんさん
このエントリで考えたかったのは、HIVに対するステレオタイプな偏見です。
HIVエイズを本当に恐れているなら、必要なことは
自分の健康を責任を持って守ること
HIV陽性者・エイズ患者が安心して治療に専念できる環境ができるよう、手を貸すこと
であると、繰り返し言われています。
ストレスの下で体を労わってゆかなければならないHIV陽性者に対して、陰性者はしばしば非常に危険な加害者になりえるのに、それを自覚せず、陽性者の加害性ばかりを言い立てる言葉が絶えないのはなぜか、ということです。

ゆんゆんゆんゆん2009/06/29 23:50今までのヘイトスピーチについてのお話は前振りに過ぎなかったわけですね。先走り気味で申し訳ありませんでした。「なぜ」が解明される「続き」を楽しみにお待ちしております。

napsucksnapsucks2010/03/14 17:02久しぶりに見直してみたらこんなエントリが。

HIVへの偏見をもたらしたのはほかでもないあなたがた肛門性交者たちではないでしょうか?
単に致死性感染症というだけがHIVへの偏見の理由だとお考えですか?

自分たちを正当化するために血友病患者を隠れ蓑にしているように思います。
いわれのない汚名を着せられる血友病患者たちはむしろあなた方の被害者ではないでしょうか?