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Ry0TAの日記

2010-01-31

手ざわりと、色と、ノイズ

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『Pe=Po』がやってきた。

  

Pe=Po vol.01

http://www.pepomagazine.com/home/pepo01

  

といっても、自分で取り寄せたんじゃなくて、

友人が東京中野の「タコシェ」で僕の分もゲットして、送ってくれたのだ。

(Uちゃん、ほんとうにありがとう!!)

すぐ売り切れるんじゃないかと心配したそうだが、

どうなんだろう?

  

封筒から取り出して手にとって、まず軽く驚いた。

キレイなのだ。

表紙の写真がキレイなことは、ウェブ上でも見ていたし、分かっていた。

でも、いざ「雑誌」の形で手にすると、雰囲気が全然違う。

まず、表紙の紙の手ざわりが、気持ちいい。

なんていう紙なんだろう、とてもなめらか。

そしてなめらかなその感触が、写真の色合いによく似合っている。

すごい印刷技術を使っているというわけでもないだろうけど、しっくり調和している。

手ざわりと色、どちらを抜きにしても伝えにくいキレイさだ。

(だから僕のヘタな言葉ではうまく説明できない)

  

f:id:Ry0TA:20100131151700j:image

僕のケータイ写真でも全然伝わらない。

  

紙というモノでしか表現できないタイプのなにか。

雑誌を手に取る気持ちよさがある。

ウェブの時代に、あえて紙の雑誌を出すことにこだわったというけれど、

ここまで狙っていたのだとしたら、おもしろい。

  

特集「カムアウト」にふさわしく、MILKカラーになっている。

f:id:Ry0TA:20100131204900j:image

あー僕の写真はヒドすぎる。

  

ハーヴェイ・ミルクのシンボルカラーはもっと濃いブルー、これはビル・コンドンの映画『MILK』で使われていた色だろう。

映画『ミルク』オフィシャルサイト

http://milk-movie.jp/

  

特集の内容を、言外に色で表わしている。これも、紙の雑誌だからできる表現?

  

  

で、いま、『Pe=Po』を手にとって読んでいる。

なんというか、不思議なおもしろさを感じている。

最初の1ページ目に、『Pe=Po』が「レズビアン雑誌ではない」理由が説明してある。

どんな理由か、ということは実際に雑誌を読んでもらうとして、レズビアン雑誌ではない『Pe=Po』が作りあげている「場」が、おもしろい。

第1号の特集は「カムアウト」。

僕はゲイであるという自分の経験を通じて、「カムアウト」という言葉を知ったし、生きてきた。

けれど、「カムアウト」は実際のところ、性的少数者にだけ起こる経験じゃない。

社会の中で何かが「隠す」ことを強いられるとき、その存在がないかのように扱われ、無視されるとき、

クローゼットとカムアウトは、ひとりひとりが生きる生になる。

200人ちかい人が、自分にとってのカムアウトを語っているアンケートが、とてもおもしろい。

いい感じにノイジーなのだ。

カムアウトについての語りは、すぐに「べき」論や理想論、過大評価や過小評価に滑り落ちるという印象があって、僕は好きじゃなかった。

けれど、ここではいろんな人が、いろんな言葉で、自分のカムアウトを語っている。

ひとつひとつの言葉は、けして新しかったり珍しかったりするものではないかもしれない。

けれど量が集まると、いわゆるカムアウトの言説に回収されない、ノイズになるような気がしてくる。マスの力とかいうものかもしれない。

それらのノイズの中で、僕らがそれぞれに直面する「カムアウト」というものが、決まった解答も方法もない「生きることの一部」だという実感が戻ってくる。

そして、さまざまなものを隠そうとする社会の中で、僕らはサバイバルしているのだということが見えてくる。

カムアウトをアイデンティティの括りから解放して、アイデンティティを問わないすべての人のものにすることで、

ずばっと核心を突く鋭い分析や気の利いた表現ではなく、ぶんぶん唸るような大量のノイズで表現することで、

逆にカムアウトの姿が見えてくる。

そんな体験ができる「場」がある。

ふしぎなおもしろさだった。

  

さて、これからエッセイを読んでいくところ。

『Pe=Po』サイトで見ることのできる目次には、執筆者名が入っていなくて、「お、あのひとが」と思いながら読むことができるのも、雑誌ならではの楽しみだ。

逆に、この人、ほかにどんな文章を書いているんだろう?と、新しいブログを発見する楽しみも。

ブロゴスフィアスピンオフ作品とでもいうような、おもしろさがある。

『Pe=Po』は紙媒体の雑誌だが、ネットが作るつながりを活かして作られた雑誌だ。

ネットと雑誌は別物だったり、ネットの便利さが雑誌の存在を喰ってしまうというわけじゃないんだなと思わされた。

  

『Pe=Po』01号が「カムアウト」を語るというテーマを通して作った「場」は、カムアウトについて語った「よりよい場」というわけではないだろう。

(というか、「より正しい認識」とか「より正確な描写」とか「よりリアルな語り」といったものははじめから考えてはいないだろうところに、この「場」のよさがありそうだ。)

別のつながりかた、別の語りかた、別の場も、もちろんありえると思う。

そもそも、『Pe=Po』がやろうとしているような、アイデンティティのくくりにとらわれないつながりが可能な場を作るということは、けっして易しくはないことだろう。

フラットに開かれた場にしようとするほど、より多数で多弁な声が少数で言葉を持たない声を押しつぶすという力関係も、生じやすいかもしれない。

ピンポイントで関心や好みの対象にたどり着くことができるネットが可能にするつながりというのは、独善的に偏ることもありがちだ。

けれど、易しくないからこそ、『Pe=Po』には期待したいと思う。

これからもいろんな形のつながりを、「場」を、試みていってほしい。

2010-01-23

「えるらじ」視聴中

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イチカワユウさんの、えるらじを拝聴ちう。

http://yuichikawa.blog28.fc2.com/blog-entry-1893.html

  

今日のテーマはイチカワさんが電脳乙女ブログのchizさんが刊行した雑誌『pe=po』についてだったんだけれど、

コヤマエミさんとマサキチトセさんが電話でアクセス

2人のお話を聞いています。

  

まず、コヤマエミさんが取り組んでいる最近の活動として、ウガンダの反同性愛法に対する抗議運動についてお話。

  

あす集会があり、出席されるとのことだが、コヤマエミさんが非常に憂慮されているのは経済制裁の呼びかけ。

同性愛死刑や重刑を科す動きは、パニックのようなもの、とコヤマエミさんは言う。

キリスト教にはたくさんの罪があるが、現実にはそれぞれの軽重で適当な罰が科されている。

(同性愛行為を罰するなら)

罰金¥30とか」

でも、実際にはいいわけだ。

(失礼、ここで大笑いしてしまった。フェラやマスターベーション罰金刑になるとして、僕は年間何千円払えばすむかな)

それに「死刑」や懲役刑を科すのは、パニックなのだ。

しかし、それに反対するために、経済制裁を取るのは、どうなのか。

経済制裁の影響がきわめて大きいことは証明されている。人を殺す。

もしウガンダへの経済制裁を実行すれば、反同性愛法が殺す以上に多くの人が殺されるだろう。

これまでも、ウガンダでは同性愛に対して懲役14年という重刑が定められていた。

大勢のウガンダ性的少数者活動家たちが、逮捕され、迫害を受けている。

これまで何もしてこなかったのに、同性愛死刑を科す反同性愛法に対してだけ

ウガンダ経済制裁を」

ということも、(反対すること自体はまったく正しいのだが)パニックのようなものだ、と。

  

コヤマエミさんは、「経済制裁をしよう」と盛り上がろうとするのは止めよう、と呼びかけるという。

反対することは正しいのだが、

戦略的になにをすれば、ウガンダゲイの人々が助かるのか、

それを考えること。

顔も出し名前も出して(つまり危険の中で)活動しているウガンダ同性愛団体を外から支援する、

実際にウガンダで活動している人たちを支える、

そのほうが大切だと。

実際に活動をしている人たちがいることもよく知らずに、

「立ち上がることのできないウガンダの人たちのために、私たちが立ち上がろう!」

というのはとても傲慢だ、

とても重い言葉だった。

  

マサキチトセさんは、最近関わり始めた活動として、ジェンダーが絡んだ雇用問題について。

雇用におけるジェンダー問題というと様々だが、マサキチトセさんが関わっている問題とは、就職活動で名前で勝手に性別を判断され、それを理由に選考から落とされた、というビックリしてしまう話。

でも、たしかに、書類に性別記載がなくても、名前から勝手に性別を判断してしまうことは、よくある。

逆に、名前から性別が分からないと、戸惑ってしまうことも。

それを人事でやってしまっては困るだろう、と思うが、その大きな前提として、「人をまず性別で分類してしまう」という刷り込まれてしまった社会習慣から、どうやって離れてゆくことができるのか、という問題でもあると感じた。

  

それから、コヤマエミさんが、大学の「女性学部」の名称改変について話をされる。

現在進行中であるらしい大学制度の問題で、僕には分かりにくい部分もあるのだが、

名称がどれほど学問のありかた、特に、学問のなかでの権力関係を決定してしまうのか、というお話だった。

「「ジェンダーセクシュアリティ」という言葉が分かるのは、中流階級だけ」

という言葉が、非常に印象に残ったり。

  

と、そのようなお話をしているうちに、時間切れで終了。

とてもエキサイティングで楽しかったです。また聴かせて貰いたいと思います。

2009-12-31

寝正月

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2010年の正月休みは、ありがたいことに何も用事がない。

1月1日は相方と一緒に出かけるが、2日、3日は自堕落に寝正月で過ごす。勉強でもすればよいのだけれど、間違いなく録り貯めていた/貯める映画やドラマの鑑賞に明け暮れる。

できれば感想を書けたらと思うが・・・。

  

ヘアスプレー

日本公式サイト

http://hairspray.gaga.ne.jp/

2002年のミュージカル版の映画化。

2007年の東京プライドに行ったときも話題になっていたのを記憶しているけれど、今まで観る機会が、いや気力がなかった。

どうかな?

出演者は結構豪華だ。クイーン・ラティファの美声が楽しみ。

  

五線譜のラブレター

日本公式サイト

http://movies.foxjapan.com/delovely/top.html

作曲家コール・ポーターと妻リンダ・リー・トーマスの伝記映画。

女性と生涯のパートナーシップを結んだゲイの物語。

「Anything Goes」を聴くのと、ジョン・バロウマンのセクシーな顔を拝むのと、

エルヴィス・コステロの特別出演を観るのが楽しみ。

  

ジェラルディン・ マクイーワン版ミス・マープルシリーズ

グラナダテレビ制作の2004年の新ミス・マープル

これまでNHKなどで何度か観ていたが、AXN Misteryが年末年始に4作を放送するので、録画。

http://mystery.co.jp/program/agatha_marple/index.html

書斎の死体」

「牧師館の殺人」

パディントン発4時50分」

「予告殺人」

ジョーン・ヒクソンのマープルが素晴らしすぎる旧シリーズに如何ともしがたく見劣りする点や、独自の脚色・翻案が多い点が賛否分かれるシリーズだが、ドラマ独自のアイディアはそれはそれで面白く観ることができる僕には、あまり気にならない。

とくに、「書斎の死体」「パディントン発4時50分」「予告殺人」の3作の翻案は、レズビアンゲイが登場するクィアな脚色が評判になった。

  

エンジェルス・イン・アメリカ

AXN Channelが第67回ゴールデン・グローブ賞授賞式特集に合わせて1月2,3日に全6話一挙放送する。

http://axn.co.jp/goldenglobe/index.php

言わずと知れた、名作。

1980年代のエイズ危機の時代を舞台に、AZTの開発と、エイズと共存する「至福千年紀」の到来を告げる叙事詩は、しかしもはや歴史的作品だろう。

僕たちは天使が告げた至福とはほど遠いミレニアムを生きている。

家の形

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先々週末を最後に、実家の両親からもう手伝いに来る必要はないと言われた。

昨年末に病気で倒れた父の歩行は、日常生活に不自由がない程度には回復していた。もう四六時中母の助けを必要とすることもなく、母も父のために休んでいた仕事や教室に復帰できるようになった。年内最後の訪問で,めでたくお役ご免だ。

  

生きてさえいてくれれば何も言わない、と思っていた手術後の頃を思うと、人間の肉体ってここまで修復が利くものなんだなと、奇妙な感心のしかたをしてしまう。しかし、そうなるまでには丸1年近い時間を要したわけで、通院とリハビリと節制の生活の中で、遅々として進まない回復を待たなければならなかった父は、本当に辛かっただろうと思う。そんな父とずっと一緒に暮らしてきた母もそうだ。

  

この1年、父の介助を手伝うという名目で、だいたい隔週のペースで週末に実家へ通った。

しかし、大変なときは24時間体制だった介助を担ったのは介護サービスと母で、月に1,2度顔を出す奴が何の戦力になるわけでもない。

訪問の目的は、定期的に母を父の介助から離れさせることだった。

あまり頼りにならないがとにかく息子がいる、ということで、母にひとりで買い物や遊びに行って貰うことができ、同窓会とか妹の子に会いに行くというイベントで家を空けることもできた。

とりあえず今回は僕がその役をやったが(子どもがいない、というのが大きな理由だ)、僕が行けないときは兄ができる限り都合をつけた。子どもがまだ2歳の妹はこのシフトに加われなかったが、母を介助生活から引っ張り出す役割をやってくれた。

  

そんなふうにして、僕らがやりたかったのは、父が介助を必要としていても、母の時間がそれにすべて取られるわけではないという既成事実を作ることだったのだと思う。

誰かが病気になったら、家族だから誰もがある程度は被るが、誰もそのために犠牲になることはない、という了解が、僕らは必要だった。亡くなった祖母の介護でこの一家は惨憺たる失敗をしたという記憶が、僕らを余計に警戒させていたのだと思う。とくに父は、家事育児でも自分の親の介護でも、母のシャドウワークを当然のものとして生きてきた人間だ。その父が、ひとりで体も動かせないということになって、僕たちが何を(正直なところ父の回復それ自体よりも)一番気にしていたかということが分かる。

  

また僕にとっては、10年来の家族、とくに親との関係を組み立て直すことでもあった。

10年以上前、祖母に対する虐待で荒れに荒れていた実家から逃げるように飛び出して以来、可能な限り実家とは関わりを持たない、が僕の肉親関係への対処法になっていた。

家族に迷惑はかけず、親に対して「子の礼儀」と言えそうなものは果たす、が、それ以外、「家族であること」に由来する関係や感情からは一切自由だ、そう思っていたかった。

年末に1度帰省して大掃除を手伝い、誕生日や何かの記念日に儀礼的にプレゼントを送り、頼まれごとは引き受け、ボーナスの時期には兄と折半で実家の家具や家電の買い換え費用を出すという分かりやすい「親孝行」をする。だがそれ以上は実家と関わりを持たない。実際には社会保障の手続きや賃貸契約の連帯保証人や諸般の連絡先として親や兄の名を借りねばならない状況はいくらでもあったので、偉そうなことを言える立場ではないが、そうして生きていけることが僕の望みだったし、概ねそれで通してきた。

  

しかし、ものごとは、特に他の人間との関係に関することは、そう自分が勝手に思うようには運ばない。

自分の意志で関係を絶てないなら、自分か相手が死ぬまで何らかのかたちで関わらざるをえない、自分が属した家族とはそういうユニットらしい。僕がやってきたことはせいぜい問題を先送りにした逃避に過ぎず、本気でそれを捨てられないなら、「自分に家族はない親もいない兄妹もない」と大声で叫べないなら、前を向いてコミットする方法を自分で決めなければならない。父の手術を機に家族関係に引き戻されることで、僕はそう思わざるを得なくなった。

  

月に1度か2度実家へ通い、週末を怒りや恨みを抜きに見ることが難しかった父の顔と向き合って過ごし、体を支え、足をマッサージし、1日に1度は爆発する癇癪をやり過ごし、話題を見つけて話す。僕にとっては、それは一種のトレーニングだった。和解や家族の感傷といったものではない。むしろ距離を取り、他人としての節度や礼儀を忘れずに行動したほうが何事も円滑に行った。もちろん我慢していたのは僕だけではない。不和を引きずっている息子と顔をつきあわせねばならなかった父も、余程しんどかったことだろう。とにかく、そうしたことのすべてが、ポンコツ化した僕の「家族ユニット」としての回線をつなぎ直し、機能を回復する手探りだった。

  

そんな感じでやってきた僕の実家通いだが、父の回復が見えてきてからしばらく、僕の仕事は腕力仕事がメインになっていた。

力の弱い母と病気の父の家に僕がいて生じる唯一の意義は「重いものが持ち上がる」ことで、父が少しずつ人手を必要としなくなると、自然僕は収納の整理やらガレージの掃除やらの腕力が必要な仕事にかり出されることになった。これを運び出せ、あれを運び入れろ、これを上げろ、それを下ろせ、あれを抜け、ここを掘れ、という用事を言われるままにこなしてきたが、もう来なくて良い、と言われたその週末、最後の仕事として出たのが、2階の両親の寝室を片付けて空き部屋にしたいから、手伝え(もちろん、重いものが持ち上がるという意味で)という話だった。

  

建て売り住宅の僕の実家は、僕ら3人兄妹の成長や人の出入りに合わせ、限られた部屋数をやりくりしてきた。

2間ある2階の1間は妹の部屋だったが、妹が結婚してから片付けられ、今では兄夫婦が孫の顔を見せにやってきたとき泊まる場所になっている。

もう1間は両親の寝室だが、父は退院して以降、階下にある亡くなった祖母の部屋(介護用ベッドがある)に寝起きするようになり、母も同じ部屋に寝場所を移して、2階の寝室はこの1年使われじまいになっていた。

いっそのことこの寝室も片付けてしまえば、子どもたちが家族連れで泊まれるようになる、というのが両親のプランだった。お父さんの入院で親戚が来たときも泊められる部屋がなかったし、どうせいつかは階下に起居したほうが便利になるのだから、と母は言う。

  

いや、ちょっと待ってくれ、とさすがに僕は慌てた。

両親が決める計画に口を差し挟める立場ではない。が、術後の父の不自由な体のためにやむなく取っていたと思っていた処置を、一時的なことではなく、そのまま今後の生活スタイルにしようとしているのを、認めてしまっていいのだろうか。毎日のように階段を使う生活と、その必要のない生活は、脚力や筋力への影響が大きく違うだろう。

それに、ここで「子どもたち」と言っているのは、結婚して子どものいる兄と妹のことだ。家族を連れてはるばる両親の家に集まることを期待されていて、その要望に応じなければならなくなるのは、かれらであって子どもも「家族」もない僕ではない。そういう話が、兄妹当人への相談なしに進むのを見過ごすのは、僕には不安だった。

  

少し待ってくれ、と、兄と妹に電話した。

兄の返答は速かった。冗談じゃないだろう。まだそんな歳でもないのに、なんのために階段の手すりをつけた?病気の前より元気になるぐらいのつもりでいてくれないと、困るよ。

妹は言った。

やめさせて、泊まる場所がなければ、帰省しないですむんだから。

そして長兄の言うとおりだ、と同意する。

  

結局、兄の説得が通り、来年にはもとのように2階で寝起きできるように、と寝室を潰す計画はお流れになった。

その代わり、もと兄と僕の部屋で、兄も僕もいなくなってから半端に物置になっていたプレハブの離れ(祖母が同居するようになったときに建てたものだ)を、完全に物置にして、母屋の収納を整頓することに決まった。よく晴れていた土曜、日曜の2日をかけて、無用になった勉強机や本棚を運び出し、残っていた僕の荷物を処分し、新しい収納棚をネットで選んで注文し、母屋で使わなくなった物を運び込んだ。到着した収納棚は正月に兄が組み立ててくれる。大掃除には少し早かったが、ベランダと雨戸を洗い、年内の僕の仕事は終わる。1年イヤと言うほど顔を出したので、正月の帰省は免除となった。

  

  

帰宅後しばらくしてから、兄から連絡があった。

1年間お疲れ、と言い、寝室をどうする、と騒いだ週末のことに話が行く。

あれで良かった、とか言いつつも、何が良いのか、ということは、兄にも僕にも分かっているわけではない。

  

親にいつまでも健康でいて欲しいと望むのは、一見当然のことに思えるが、つまるところは子どものエゴなんだろう。

祖母のことを思い出す。少しでも、1日でも長く自分で歩き、自分で起き上がれるように、両親はそう望んでいた。だがそれができなかったために祖母は責められ、父に怒鳴られ折檻された。虐待を止めることができず混乱していた僕は、好きに老い自由に弱くなることも認めてやれないのかと、言葉にできない憤りを胸に溜めていた。

だが、自分は?老いに向かってゆく両親を見、あのときの父母の立場に立たされて、やはり僕は親が健康体を維持することを望み、弱ることを認めようとしていない。

  

いや、ばあちゃんのときと同じことを考えるのは、まだ20年先だろう。元気でいてくれってのは、別に本人たちにも悪いことじゃない。

兄は言う。

それに、この先どうなっても、俺たちにできることとできないことがある。できないことはできないし、できることをやればいい。

  

その通りだと思う。が、それも簡単ではない。

人間が相手なのだ、割り切れないことは絶えない。

「子どもと孫に囲まれて休暇を過ごす」のは、苦労して3人の子どもを育てた両親には「当然の願い」なのだろう。親が望んでデザインした家の形を、だが子どもは誰も望まない。

親を大切に思う感情が欠落したぶん、後ろめたさが募る。「家族」や「親子」の影から必死で逃げたがっていた僕の内面はその実「家族」や「親子」の規範でがんじがらめになっていて、絶えず足をすくわれそうになり目測を誤る。そんな規範もしがらみも一切捨てたほうが誰もが楽になれると予感しながら、まだ。

  

下手をすると一生に及ぶ緊密な関係に縛られているが、望んでそうなったわけでも、相手を選べたわけでもない、それが親子きょうだいという人間関係なのだろう。

異性愛家族を単位にしている今の社会は、家族のつながりを持つ人間に何事も有利に働く。人間はそうそう簡単に家族を離れることができない。制度的にも、経済的にも、倫理的にも、精神的にも。

憎しみさえも取り込んで複雑に入り組んだ家族の規範を、僕は一歩も出て行くことができていないと痛感する。

だが、巻き込まれているという事実を割り切って、そこから可能な限り自分の望む方向へと出発するしかない。

  

父の介助の問題で、兄が画した一線は、パートナー、つまり僕の義姉を関わらせない、ということだった。

彼女には仕事も彼女自身の親の問題もある、自分の親の問題は自分で引き受ける、そう言った。「嫁」が夫の親を介護することを当然視してきた家族を見てきた兄が、自分が作ろうとしている家族のために決めたことだ。

  

孫にはいい祖父母だよ。俺らにはああいう親だし、あの歳で、もう変わることもないだろうが・・・うちの子にとっては、また違う人間だ。

  

「妻子」を持ち、「孫の顔」を親に見せている「長男」の兄は、僕とは違う形で家族に巻き込まれている。正面から巻き込まれながら、しかし同時に自分のために突破口を開こうとしている。

僕が唯一カムアウトした家族でもある。

  

兄には、どんな家の形が見えているのだろう。

2009-10-31

誕生日

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昨日はハロウィーンで、はてなサービスが「はてなスター」を「はてなカボチャ」にした日だったらしいが、個人的には誕生日だった。

  

仕事のあと相方と落ち合って、外で食事をして帰宅したら、相方の電話に彼のお母さんからの留守電が入っていた。

いろいろな家族同士の用件だったらしいが、それと一緒に、僕の誕生日についてもメッセージを入れてくれていた。

  

誕生日を憶えていてくれたのにびっくりしたが、思えばそうなった経緯はある。

  

8月に海外出張に行ったのだが、出張先の名産のガラス細工を相方の実家へのお土産に買ってきた。これまでも出張で珍しそうなものが手に入る場所へ行ったときは、ちょっとしたものを買って送ったり、彼の帰省のときに持って行ってもらったりしていたのだけれど、いつも食べ物とかお茶とか後腐れ無く消えて無くなってくれるものばかりだったので、勢いで買ったとはいえ初めて形の残るものを贈るのは、なんだか気が引けた。というわけで、相方と相談して、9月のお母さんの誕生日プレゼントを、彼のために僕が出張先で買ってきた、ということにしてもらった。

そのときも彼のところに2人宛てにお礼がきて、ついでに、僕の誕生日がいつなのか尋ねられた。それはそれでなんとなく嬉しかったが、まさかわざわざ当日に電話をもらえるとは思わなかった。

  

少し非常識に遅い時間だったが、相方に電話をしてもらい、途中で替わってもらって、お礼を言った。

大したことを話すわけじゃなく、かれらと僕の唯一の共通の話題、相方が仕事と大学の兼業人生をどれほど頑張っているかを少し話して、受話器を返した。

相方の家族と話したのは、ものすごく久しぶりだ。緊張したが、ありがたかったし、嬉しかった。

  

  

僕が相方の家族に会ったのは、僕らがつきあい始めたころだ。

このあたりの経緯はゴチャゴチャしているので詳細は省くが、きっかけは、「病院」だった。相方が過労で倒れて入院したとき、つきそっていた僕が彼の家族に連絡を取ったのである。

そのころの僕は彼の「パートナー」とか言えるほどの立場じゃなかったので(今もそうか分からないが)、病院に言われるまま速効で彼の実家に電話したが、そのせいで相方は(病身で大変なときに)家族の知らなかった「友人」のことをご両親に説明するはめになった。

  

相方が家族にどのような話をしたのか、僕はまったく知らない。だが、想像でもあるていど確実なこととして言えるのは、カミングアウト、とくに家族へのカミングアウトは単に告げて終わるものじゃない。相手に伝わるまで、場合によっては何年もかかるということだ。

もともと相方は、これまで大学でも職場でもカムアウトしたことも、するつもりもないという人だ。だが、家族にカムアウトするというハードルが高い仕事を、時間をかけてやり続けた。今もやっている、と言うべきかも知れない。散々騒ぎ、好きな相手にはカムアウトするが、親にはクローゼットで、なにごとも中途半端な僕とは違う。

  

とはいえ、しばらくのあいだは、なにもなかった。しかし、あちらは僕の存在を知っているわけで、大事な息子の身近にいる奴が、いい年をした大人なのに知らんふりでもしているように黙り込んでいるという状況には、なんだか気が引けた。

そこで、職場で手に入る展覧会の招待券を送ったり、年末年始に彼が帰省するときは、菓子折を持って行ってもらったりした。要するに、「遠くで壁の後ろからサッと顔を出してちょっと手を振る」的なセコいことをして、僕なりの礼儀(といえるようなものか、分からないが)を示そうとしたのである。しかし、本来なら僕が関わるところじゃない相方と家族の関係に強引にねじ込むようなことをしたわけで、彼が承知してくれたからこそできたことだ。相方の妹の引っ越しで、兄貴が運転手と労働力を依頼されたとき、一緒に手伝いに行ったこともある。

  

僕が相方の家族と連絡を取るようになったのは、一昨年から昨年、彼が海外赴任で7ヶ月海外に行ったときだ。彼にとっては、もちろん仕事だが同時に研究のための現地調査でもあるという、念願叶っての赴任だった。あの頃の彼がどれほど努力していたか、遙か遠くからでも怖いぐらいに感じられるほどだったから、僕なんかには説明できない。住居を引き払った相方が僕に荷物を預けていったこと、僕が彼と連絡をとっていたこともあって、僕は彼の両親と連絡を取りあい、話し合う機会が何度かあった。ご両親が彼の赴任先を訪ねたときは、旅行の手配を少し手伝ったりもした。

  

そんなことがあったせいで、相方が帰国して一緒に暮らすようになっても、たぶん、「成り行き」的に受け入れられた(のだと思う。だといいのだが)。

  

相方がときどき言うことだが、彼の家族はべつに、同性愛者がいることや、息子がゲイである事実を理解した、というわけではないらしい。

ただ、これはあくまで僕の想像だけれど、ここ数年での彼の大学院への進学や海外赴任を通して、彼の両親は息子が選んだ生きかたを全面的に信頼して認めるようになったのではないか。彼の海外赴任中に彼の家族と接したときの、僕の印象だ。彼の家族は、彼が自分の人生に責任を持って生きていることを信用している。そしてその隅のあたりには、僕のことも入っている、というのが今の状態だと思う。

  

相方の家族と会ったり話したりするわけではない。ただ、出張に出ると、彼の実家にもお土産を送る。そのたびに礼を伝えてきてくれるし、相方に送ってくる荷物に「僕にも」と言ってコーヒーや珍しい食材を入れてきてくれる。

  

こんな言いかたは失礼かもしれないが、僕らは距離を保ちながら、だがつながりは絶やさないような努力をしているのではないだろうか、と思う。

相方の家族がそれをどう感じているか、僕には分からないけれど、僕にとってはとてもありがたいことだ。もしまた彼が、病気や怪我をしたら?僕は一人で外で待ちたくないし、そのとき、こうして彼が僕を彼の家族につないでくれていることが、僕を助けてくれるんじゃないかと期待している。僕がいつまで相方の側にいれるのかは分からないけれど、少なくとも今の僕には、それはすごく大切なことだ。

  

「パートナーの家族との関係」という問題は、べつに性的少数者に限ったことじゃない。法的・社会的に堂々とパートナーシップが保障されている規範異性愛者だって、「人間関係を築く」ことの労力や困難については少しも変わらないし、むしろ、「妻」「夫」といった役割の規範や社会慣習に厳しく縛られているように思う。

だが、同性愛者の場合は、モデルのないところで手探りで関係を作らなければならない。その頼りなさや不安は、決して小さくない。

  

家族と良い関係を持たなければならない、とは別に僕は思わない。急いで切ったほうがはるかに健全な家族関係も珍しくないし、「家族の絆は大切」というのは、それが個人を苦しめるならただの呪いでしかない。「家族に認められるにこしたことはないから」という優しい気遣いに聞こえる言葉が、ときにどれほど酷い犠牲を強いるか、僕は見たことがあるし、自分でも経験した。

肉親関係や人間関係という、場合によっては非常にリスキーなものに人が依存しなければならない、人生が左右されてしまうのは怖い、といつも思っている。

でも、とにかく相方は、時間をかけて自分の家族と僕のあいだにパイプを作ることを選んでくれた。そしてそれは、やはり僕の安心、セイフティネットになっている。

  

翻って、僕は?僕はどうしているか?というと、僕は親にカミングアウトしていない。唯一カミングアウトしている兄には、相方とつきあっていること、一緒に暮らしていることを伝えているが、彼を兄に紹介していない。これは僕の家族の拗れた事情もあるのだけれど、相方が僕のためにしてくれているような準備を、僕は彼のために何もできていない。

  

どうするんだろうか。「こうしなければならない」というルールはないが、いずれにしろ自分が生きてきた来し方と向き合い、行く末のために手を打たなければならないときはやってくる。パートナーや肉親とのかかわりも含め、僕という人間はどんなサバイバルを選んでゆくつもりなんだろうか。方向を探しあぐねている僕は、気づけば昨日から33歳のいいおっさんになっている。

2009-06-22

排除のためにその名が使われるなら

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かなり恥ずかしい話かもしれないが、僕が同和という言葉を初めて聞いたのは、大学1年、19歳のときだ。

差別部落問題のことは漠然とした知識としては知っていたが(たとえば島崎藤村を読んで)、現代の被差別部落問題について考える機会もなければ、問題関心を抱くような感性もなく、じつに成人近くになるまで同和という言葉を知らずにきた。もちろんどこかで触れていたかもしれないが、意識したことがなかった。僕の認識はその程度のものだった。

  

僕が初めて、まともにその言葉を聞いたのは、なにかというと、母のおしゃべりを通してだった。

  

話の細部は、それほど詳しく憶えているわけじゃない。母は、その頃参加していた工芸教室で聞いた噂話を、僕に再現して聞かせていた。

ある家に大学生の息子がいて、まあ、勉強もせずチャラチャラ遊んでいるとかいう、ろくでもない奴らしかった(母は僕のことを考えていたのかもしれないが)。

ある朝、その家のお祖母さんが孫の部屋の前を通りかかると、畳の上に(日本家屋らしかった)女性のパンツが落ちている。

驚いたお祖母さんが、孫が寝ている部屋の襖を開けると、

  

「布団の中に、頭が2つあったんだって!」

  

母は笑った。

ようするに、息子は自室で女の子と一緒に寝ていたところを、お祖母さんに見つかってしまったのであった。

お祖母さんのショックは並大抵じゃなかっただろうし、孫らの所業は極めつけに「ふしだら」な行為に映ったことは、想像に難くない。

と、母は、友人から聞いた話を続けた。

  

「でね、その女は、『どうわ』なんじゃないか、って言うのよ」

  

これが、僕が「同和」という言葉に接した、最初の経験だ。

  

  

  

いろいろな偏見や嫌悪が複雑に重なり、絡み合った話だ。

  

セックスに対する偏見と嫌悪。

女性に対する偏見と嫌悪。

そして、被差別部落出身の人に対する偏見と嫌悪。

  

そのお祖母さんや親御さんには悪いが、自宅で親と同居している息子が、親に内緒でコッソリ彼女を部屋に連れ込むなんてことは、決して珍しいことではないんだろう。

1,2年後、僕は大学の先輩の似たような体験談を(他の先輩から)聞かされた。

自宅通学の先輩は、彼女をときどきコッソリ自室に連れ込んで(、まあたぶん、いちゃいちゃして)いたそうだ。がある日、彼女がそうやって部屋で先輩を待っていたとき、家族が部屋のドアを開けてしまった。

見知らぬ若い女性がベッドに腰掛けていたのだから、まあ、ご家族は驚いただろう。しかし彼女が礼儀正しく振舞ったこともあり、その場は切り抜けたそうだ。いまでは2人は結婚して2児の親である。

  

母が語った話は、

「息子が親としては認めがたいセックス行為をやっていた」

というだけの話でしかない。親としては不愉快だろうが、それ以上でも以下でもない。

だが、その話は、その「ふしだら」行為の「理由」を求めた。

息子の親の視点で、そういう「ふしだら」行為は、まず当然のように女性の方のせいにされた。

そして、そういう行動をとる女性は、当然のように「普通の」女性ではないとされた。

そんな常軌を逸した(教室にいた母と同世代の人たちには、たぶんそう思えたのだろう)行動をするだけの、納得のいく説明のつく事情をその女性は持っているはずだ。

それを説明するものとして、「どうわ」という言葉、名前が、人にスティグマを与える道具として使われた。

(同和は部落差別をなくし部落出身者と非部落出身者の差異を融和するという言葉だが、この話のなかでは、被差別部落出身者を指す名前として使われていた)

  

  

この話が持つ残酷さのそういう仕組みが理解できたのは、ずいぶん時間が経ってからだ。

それから被差別部落問題、同和問題について真面目に考える、知ろうとする努力もろくにしてこなかったが(その当時よりは、さすがに少しは知るようになったが)、この話のことは、心にこびりついたように、忘れられなかった。絶えず思い出していた。

  

たとえ住居の改善や就業差別の撤廃を保障する制度があっても、こんな言葉を発するような意識があるかぎり、たとえばそこに被差別部落出身の人や友人がいるかもしれないとは想像もせずに、その人たちのことを「われわれとは違う人間」として「われわれ」の外へ押しやる、そんな意識を当然のように受け容れる場が生まれうるかぎり、そしてそのときの僕のように、その排除の構造に気づくことすらできない人間がいるかぎり、「もう差別はない」とは決して考えられないのだろうと思った。

  

差別の問題は、さまざまな制度や救済措置を整えるだけでは済まないこと、どこかで「差別心を抱いていると意識せずにすむほどの人間の差別心」を問題にしなければ、その危険は消えないのだと、僕に初めて考えさせたのは、被差別部落問題と本当に直接関係があるわけではない、こんな下ネタまがいの噂話だったのである。

  

  

最近、母もあのとき、自分が聞いた噂話にしこりを感じていたのかもしれない、と思うようになった。

母も、その息子と寝ていた女性の行為を非難するのに「差別」のレッテルが利用されることに、抵抗を感じていたのかもしれない。それを伝えたくて、僕にあの話をしたのかもしれない。

しかし、肝心の息子はポカーンとしていて、下ネタじみた逸話がはらむ差別意識を、感知することもできなかったわけだ。

  

週末、実家に行ったおり、13年ぶりに僕は母にその話をした。

  

結論を言うと、母は自分がした話を忘れていた。思い出そうとしてくれたが、思い出せないという。

母は憶えていなかったが、とりあえず僕は、ずっと言いたかったことを言った。僕がずっとその話を忘れられなかったこと、その話が、僕が真面目に考えることがなかった差別について初めて考えるきっかけを与えたこと。母は頷いていたが、伝わっただろうか。

  

13年たって、僕はやっと返事をした。

けれど、まだこれからも、思い出し続け、考え続けなければならないのだろうと思う。