Hatena::Groupqueeringme

Ry0TAの日記

2009-07-22

丁乃非/劉人鵬「「同性愛嫌悪」と含蓄・寛容の美学」

| 丁乃非/劉人鵬「「同性愛嫌悪」と含蓄・寛容の美学」 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 丁乃非/劉人鵬「「同性愛嫌悪」と含蓄・寛容の美学」 - Ry0TAの日記

  

随分前にたまたま読んだ

に収録された論文、

  

丁乃非/劉人鵬「「同性愛嫌悪」 と含蓄・寛容の美学」

丁乃非、劉人鵬「罔兩問景:含蓄美學與酷兒政略」『性卅別研究第三、四期合刊〈酷兒:理論與政治〉專號』 中壢:中央大學, 1998, pp.109-55.

再録:劉人鵬、白瑞梅、丁乃非『罔兩問景:含蓄美學與酷兒政略 Penumbrae Query Shadow: Queer Reading Tactics』2007

isbn:9789860099393

http://sex.ncu.edu.tw/publication/2007/penumbrae_index.htm

  

のノートを取りたいと、ずっと思っているのだが。

  

著者は台湾の文学・クィア批評の研究者

  

劉人鵬(Jen-Peng Liu)  國立清華大學中文系教授

http://sex.ncu.edu.tw/members/jenpeng/index.htm

サイト「罔兩問景」http://sex.ncu.edu.tw/course/liou/

  

丁乃非(Fifi Naifei Ding) 中央大學英美文學系教授

http://sex.ncu.edu.tw/members/Ding/index.htm

  

台湾のLGBTムーヴメントやクィアについては何も知るところがない僕だが、たまたま読んだこの論文がずっと気になっていたのは、一読してギクッとするような「既視感」のせいだ。既視感が大げさなら「あるある感」と言ったほうがいいか。

「アジア的な同性愛嫌悪」のシッポがつかまれている、という気がした。

  

しかし、文体のせいか翻訳の硬さのせいか僕の読解力と頭の悪さのせいか、なんだか咀嚼し切れず、感想を言葉にできない。

取りあえず、後のために「ギクッとした」箇所を引用しておく。

  

冒頭、問題提起ー

台湾では孤児しかカミングアウトできないのだろうか?家庭は幸福で暖かい場所だと言うが、孤児にならない限りカミングアウトできない。それは家庭のポリティックスが強大だからだ。( 家珍)

 現在台湾の同性愛についての表象論(リプレゼンテーション)やレズビアン/ゲイ・ムーヴメントの議論の中で再三言われている事は、アメリカ式のカミングアウトは台湾の同性愛者にとって難題であり、その原因は家庭にあるということである。この問題について、カミングアウトの代替案やカミングアウトという行動・ロジックを越える方法などが議論されてきた。それでは、家庭の日常生活、家庭のポリティックスの何が同性愛のカミングアウトを不可能にしているのだろうか?

  

 結局、何の力が、我々に己の本文を守らせ,性別違和や性同一[性?]障害の同性愛者*1を社会や家庭とは相容れない魑魅魍魎の世界に閉じ込め、折り合いをつけて生きていくという任務を負わせているのだろうか?もし我々が規定の秩序内で「同性愛者はどのようにカミングアウトするか」と問い続けるならば、「技術的にあらゆる思考をこらし」ても、結局カミングアウト(現身)はカムアウトしない(隠身)とイコールになるのではないだろうか。

  

 ここではカミングアウトの方法についてはしばし不問にし、分析の焦点を他に移す。カミングアウトをとりまく無名の圧力とは結局どのような力なのか。どのようなコンテクストによって、この圧力が寛容、愛、優しさ等の名の下で、現代の民主的・多元的秩序を完成させ、同時にカミングアウトを依然として困難なものにしているのか?

  

pp.281-282.

  

そして著者は、現代香港・台湾の時空間、あるいは中国語圏の文化時空間に作用している「「含蓄」というポリティックス」に着目する。

  

本論分が論じるのは、「寛容」とは思考停止状態の、含蓄というレトリックの策略であるということである。「寛容」は日常用語レベルでも含蓄に富んでいる。「寛容」の二文字は人間関係において言語化されたとき、容認できないこと、あるいは容認の限度であることを伝える。たとえば「この問題に対し、私は常に最大の許容度を示してきた」というとき、話し手が真に寛容であった場合には使われない。本論文が分析するのは、「寛容」という修養が要求するもの(以下の清清の家族の例のように)、あるいは「沈黙の寛容」という文化伝説(同性愛論)が内包しているだろう含蓄の同性愛嫌悪の力である。

  

pp.282-283.

「含蓄」とは一般的には漢文学の伝統的美学の1つであるそうで、詩の引用などで意を伝える婉曲で間接的な表現を指すらしい(よく分からないのだが)。

「含蓄」が通じるためには、「必ず「群体和同(ある集団が一つの心である)」の状況下でなければなら」ない。直接な明言を必要とせず、皆が分かり合っているという暗黙の了解のもと振る舞うことを善とする規範。ここで、「含蓄」という倫理的美学的規範は、文学に留まらず社会的ポリティックスにつながってくる。

  

含蓄のある,婉曲で間接的な表現形式が、もし抑制力になり、またある空間を共有する人々は心を一にしていると仮定するなら、秩序は明言する必要のない含蓄の力を利用して、秩序の中心外の個体の生存、活躍の可能性を失わせる事になるだろう。

  

p.284.

  

著者は、大衆小説賞を受賞したレズビアン小説『逆女』のあるエピソード、主人公・天使との関係から娘の清清を「正常な生活」に引き戻そうとし、清清を自殺に追いやってしまう家族に、どのように「寛容」と「含蓄の精緻な力」がはたらいているのかを分析する。

  

 精緻な含蓄は一種の力であり、屈辱感をもたらす。無言のうちに、あるいは間接的に、言語ではなく行為で、含蓄は是非・善悪を判別する。沈黙の寛容の中に、性とジェンダーの階級的美学の標準を伝達し、クローゼットの中に戻ることを要求するのだ。そして屈辱感は含蓄という影の外のうっすらとした罔兩(影)になる。含蓄のある、優美な[ヂャン]家で、娘は絶対的な含蓄をもって正常に戻るしかなかった。

(略)  

 もし[ヂャン]家の理想的で「含蓄」のある教養モデルが強烈な同性愛嫌悪という力を構成したなら、小説の語りそのもの、および内包される読者・批評も同様に同性愛に対する直接的なタブーを逃れている。そして、ともに含蓄をもって、暗示的に抹殺し、譴責し、抑圧しているのである。これは一種のおだやかで温和な同性愛嫌悪に相当する。

  

以上、小説の語りと批評の中に、含蓄,寛容という倫理的美学的規範は、認識されにくい同性愛嫌悪という作用を引き起こし促進する、あるいは同性愛嫌悪の連鎖反応を引き起こすことを我々は見てきた。このような価値観を背負った「理解寛容」等の観念と語彙を使用し、伝達し,流通させるとき、結局誰が、あるいは何が、その内部で完全な面目を保つのだろうか。

  

pp.288-289.

  

 近年、台湾の中国文学研究で、特に流行しているのが漢学のジェンダー研究である。伝統中国の女性と同性愛を論じ、おおむね「西洋とは違う」「中国的」歴史経験や思考形式を挙げ、セクシュアリティ/ジェンダー研究における西洋の覇権性を阻もうとする。

(略)

実際、セクシュアリティ/ジェンダー研究の領域で、中国と西洋の差異という伝説は容易に援用されている。フェミニズム,ゲイ/レズビアン・ムーヴメント、セクシュアリティ研究は「西洋」を起源とするものとみなされ、「中国」は「西洋」の放縦さとは対極にあると断じ、あるいは「中国」は西洋の衝撃の下に努力し進歩した学生であると論じるのである。この二種の言説と運動領域が結びついたとき、一定の作用をもたらすことを証明しよう。前者は、我々は異なる温和な伝統があるので方法を変える必要はない、という。後者は、ある特殊な成長過程は我々のものである、という。後者も他の方式への改変や闘争を拒絶する方向性を示している。二種の言説は、両方とも言外に,マイノリティの主体の存在と闘争に正面から向き合うことを否定し拒絶している。そして常に特定の資源をもつマイノリティの個別の主体は、権力の間隙に入り込み、容認されまた対抗することができる。彼女が成功し,現有の権力,利益の階層秩序をおびやかさず、現在の状況に多元的な繁栄を添えるなら、このマイノリティの個別の主体は「寛容」されるのである。多元、民主、開放的な「寛容」のもとに、同性愛を描きつつ同性愛を再びおとしめたり無意識のうちに抹殺している者は枚挙にいとまがない。

  

pp.289-291.

  

 現在の同性愛論の多くは、多元、開放、健康的で同性愛嫌悪のない伝統的中国の性の楽土を意識的に構築する。その問題点は、一、同性愛および同性愛嫌悪の歴史記述を単純化した二元方法で処理し、中国と西洋,現代と過去を本質的な総体としている。これは常に新しい文化、勢力の衝撃を受け続け、すでに雑種化、多元化した時空間が併存する香港、台湾とは相容れない。二、「寛容」を理想化することで,実際は想像上の「含蓄寛容」の伝統を強大化している。そして,慈愛にみちた寛容なレトリックを用いて性別違和や性同一障害の人は必ずこの文化を尊重し,回帰しなければならないと説く。そして文化内の同性愛嫌悪と多元的寛容を堅持することによって、マイノリティや性同一障害の個人に個人的「不正常」の問題を負担させることになる。三、「寛容」という含蓄の力は、確かに日常生活の公/私的領域や行動・言語活動で観察できる規範である。だから「寛容」は一種のレトリック上の含蓄の力として、更に分析されるべきで、自明の理想的価値観としてとどめておくことはできない。われわれは少なくとも台湾では「寛容」と「含蓄」というレトリックとポリティックスが依然として力を持っていると考える。その外見は、たとえば「民主化」などに変化しながら、特に家庭内の性愛をとりまいている。

  

p.292.

 含蓄という言行の美の力と感知構造が一日でも続くならば、同性愛の欲望やセックスはこの特殊な民主形式の下に細々と生き延びるしかなく、さらに抑圧されていくだろう。なぜなら彼らは同性愛嫌悪ではなく、沈黙の寛容を持って対するからである。

  

p.293.

*1:この箇所は、著者が同性愛者=トランスジェンダーと考えているのか、訳に問題があるのか、不明。

2009-04-30

立てるだろうか?

| 立てるだろうか? - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 立てるだろうか? - Ry0TAの日記

  

イチカワユウさんのブログで、こんなゲイ・ジョークを教えて貰う。

  

Are You Gay? ー押して,押して、押し倒されろ!

  

僕がまっさきに思い出したのは、『イン&アウト』のラスト・シーンだった。

イン&アウト [DVD]

イン&アウト [DVD]

  

地方の小さな町から出た若手俳優が、ゲイを演じた主演映画のアカデミー賞授賞式で、高校時代の恩師がゲイだと全世界にアウティングする(『フィラデルフィア』のアカデミー賞授賞式でのトム・ハンクスがモデルになっている)。呑気な町は、ゲイの高校教師をめぐり大騒ぎ(イン&アウト)に。

騒動は、教師の生活を激変させただけには留まらなかった。保守的な校長と教頭は、次第に彼を疎んじ始め、彼の地位は危うくなる。

卒業式の日、最優秀教師賞を授与されるはずだった彼に、校長は「ふさわしくない」と、表彰を止めようとする。恩師のカミングアウトに動揺していた生徒たちは、この差別に憤激し、式場で「私もゲイです!」と叫んで立ち上がる。

すると、教師の家族が、町の郵便屋さんが、消防団の人たちが、式場に集まった町の住民たちすべてが、「私はゲイです!」「俺らはゲイだ!」と立ち上がり、そこにいる全員が(校長と教頭以外)ゲイになる…。

ベタだが、ベタなだけに、僕はベタに感動してしまった。とても好きなシーンだ。

  

しかし、感動はしたが、考えかたによっては、異性愛者がアライ(共感し連帯する非当事者)として「ゲイだ」とカミングアウトしてみせるのは、それほど難しくはないのではとも思う。そのあとですぐに、「私はああいう差別が許せなかったから、抗議のつもりで『ゲイだ』と言ったのだ」と撤回できるのだから。その人が義侠心のある人だということを示すだけである。

  

しかし、『イン&アウト』の舞台の町には、主人公の教師以外にも、レズビアン、ゲイ,バイセクシュアルがいたはずだ。その人も、あの式場で「ゲイだ!」と叫んだだろう。だがそれはあくまで異性愛者のアライの(ふりをした)パフォーマンスと看做されるだけで、教師がゲイとして住民に受け入れられたのちも、その人はクローゼットの中で暮らし続けたのかもしれない。

  

そんなことをつらつらと考えてしまうのは、「ゲイだ」と立ち上がるのは、僕にとっては簡単なことに思われないからである。

飛行機の中に、僕を知っている人が誰もいないか、すでにカミングアウトしている友人や同僚だったら、立てるかもしれない。

でも、そうじゃなかったら、例えば隣に座っているのが、僕をゲイだとは知らない、ヘテロセクシストの同僚や上司や家族だったら、はっきり言って、立てないだろう。もし目の前で本当の不正が行われていても、「私もゲイだ」と叫んで立つ勇気は出ないだろう。

「義憤のためにゲイのふりをする異性愛者のアライのふり」をして立つということも可能かもしれない。が、そんな二重のクローゼットのような細工をしてまで、僕の膝が動いてくれるか自信がない。

情けないことだが、そういうことを考えたうえでなければ、僕は「私はゲイだ」と立ち上がれないだろう。

言い訳は恥ずかしいかもしれない。でも、ジョークの中のゲイ氏にとっては、「ゲイは私です!」と叫んでも、さしたる問題もないし、何も変わらなかったはずだ。単に彼の名前が「ゲイ」なのだから。だが立ち上がった他の乗客たちは、自分を賭けたのかもしれないのだ。

  

ジョークの中で立ち上がったゲイの乗客たちは、ぜんぜんそんなつもりはなかったゲイ氏に、勇気をもらったのだろう。とても素敵なケミストリーだ。それがこのジョークのキモなのだと思う。

  

だが、現実には、そんなケミストリーは、そう簡単に起こってくれるだろうか。

起こってくれたとしても、そのとき、僕は立てるだろうか?目の前で不正のようなことが行われていても?

  

考え始めると、とてもジョークではすまされなくなって、考え込んでしまった。

ここのところ、カミングアウトについて、ヘタレたことばかり書いているな…。

2009-04-29

「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子)

| 10:35 | 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』

第1章「<わたし>/<わたしたち>を語ることの政治性」第2節「カミングアウトー<解放>から<抵抗>へ」pp. 40-44.

  

ゲイ解放運動の流れの中で、カミングアウトが「革命」「解放」と肯定的に捉えられてきたことに対する批判を、フーコー、ハルプリン、バトラーの3者を上げて紹介している。

  

カミングアウトすること自体が革命的であり開放的であるという解放主義的な思想は、現在では多くの批判に晒されている。その先駆けとなったのが、ミシェル・フーコーによる批判である。

  

フーコーは『性の歴史』第1巻の中で、近代以降、性に関する言説は抑圧されてきたのではなく、むしろ煽動されてきたのだと主張した。性に関する言説が抑圧されてきた側面にではなく、むしろそれが積極的に生み出されてきた側面に目を向けようとしたフーコーの手法は、カミングアウトに関しても、それまでとは異なる認識枠組みを提供することになった。

  

フーコーによると、近代に起こった「性についての、文字通りの言説の爆発」によって、性について「どのような時」に「どのような状況」のもと「どのような話し手の間で」語られるべきなのかに関する統制が行われるようになった(フーコー1986:25-26)。そして、こうした統制の結果,一方では「異性愛に基づく一夫一妻制」が「語られることのより少ない」「一つの基準として機能」するようになり、他方では、この基準から外れるものはみな「周縁的性現象」として「自分がいかなるものであるかという難しい告白をする番」(ibid:25-26)とされたのである。したがって、フーコーにとって「周縁的性現象」の出現とは、性に関する言説の抑圧が緩んだ徴候などではない。むしろ、それは性に対する「権力の形式」が「禁忌」から「管理」へと移ったことを意味している。そして、この時期に性を管理するために積極的に生み出されたのが、性に関するさまざまな科学的言説(医学的、心理学的、病理学的な言説)だったのである。

  

さらに重要なことは、こうした言説が「周縁的性現象」を「秘密として設定すること(つまり発見されるためにはまず隠れるように強制すること)」(ibid:54)で、それらを発見したという点である。近代において同性愛を含むさまざまな「周縁的性現象」が発見された背景には、実はこうしたトリックが潜んでいる。だとするならば、自らを同性愛として「発見」し、その「発見」について語るという実践も,権力の外側に位置しているのではなく、性を管理するために発明された権力の内側に埋め込まれていることになる。言葉を換えれば、自らの性について語ることは、性を管理するために生み出された権力の一形式なのである。したがって、自らの性について語ることを抑圧や権力関係から自由な解放と安易に結びつけてしまうことは、その語りが生み出された権力関係を不問に付すことになってしまう。フーコーがカミングアウトを解放と結びつけて捉える思想を批判したのはこのためである。

  

フーコー/渡辺守章訳『性の歴史I 知への意志』新潮社, 1986.

isbn:4105067044

  

現在では多くの論者が、カミングアウトに対してこうした立場をとっている。たとえば、ゲイ・スタディーズの理論家であるデイビッド・M・ハルプリンはカミングアウトに「肯定的」で「解放的」な側面があることを認めつつも、カミングアウトしたことによって生じうる新たな「危険」や「制約」について以下のように述べている。

  

クローゼットからのカミングアウトに何か自己肯定的な、実際解放的なものがあるとしても、それは、カム・アウトすれば、従属状態から逃れ、一切の足枷のない自由な状態になれるからではけっしてない。むしろ逆だろう。カム・アウトすることは、また違った種類の危険と制約に自らをさらすことであり、自分で手軽なスクリーンになって、ストレートの人々がいつだってゲイに対して抱いている幻想を引き受けkることである。そしてなにより、自分の身振り、発言、表現、意見のすべてに、ホモセクシュアルのアイデンティティを認めた者、という、とてつもなく大きな社会的意味が加わってくる。(Halperin 1995=1997: 48-49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

他方、ジュディス・バトラーは、カミングアウトした「主体」は「従属をまぬがれることができるだろうか」と、以下のような問いを投げかけている。

  

「カミング・アウト」の言説は明らかにその目的をはたした。だがその危険性はどうだろうか。「アウト」と看做されている人々が、自分が意図してそうなったかどうかにかかわらず、失業とか公的攻撃や暴力の対象となることが最近とみに増えてきているが、私がここで言っているのはそのことではない。「アウト」な「主体」が従属をまぬがれ、最終的に自由になることができるだろうか。つまり、ゲイやレズビアンの主体を、いくつかのやり方で服従させる隷属状態は、いったん「アウトである」ことが主張されるや、抑圧を続けたり、もっとも陰湿なやり方で抑圧するということがありえるだろうか。(Butler 1991=1996: 118.)

  

ジュディス・バトラー/杉浦悦子訳「模倣とジェンダーへの抵抗」『イマーゴ 特集 セクシュアリティ』5月号(1996), pp. 116-135.

  

カミングアウトしたからといって、抑圧から解放されたり自由になれたりするわけではない。むしろ、カミングアウトしたことで、レズビアンやゲイに対する抑圧が、わたしたちが予期しなかったようなかたちで続けられていったり、あるいは逆に増大してしまったりする可能性も残されているというのである。

  

「抵抗」としてのカミングアウト (2009年7月21日追記)

飯野は、70年代ゲイ解放運動で称揚されたという「カミングアウト=解放」という理念が多くの思想家に批判されたことを紹介したのち、カミングアウトは「権力関係に亀裂を入れてゆく」「抵抗」である、という捉え方に移る。

  

 フーコーにとって抵抗とは,解放とは異なり、「権力の関係の戦略的場において」存在し、権力の「排除不可能な相手として書き込まれている」(ibid:124)。そして、抵抗はそのような相手として書き込まれることで、「社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破戒し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り込み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」(ibid:124)のである。つまり、フーコーの枠組みにおいてもなお、抵抗という形で,権力関係に亀裂を入れてゆくことは可能であるということになる。

  

 フーコーによるこうした議論の影響を受けて,現在では多くの論者がカミングアウトを権力からの「解放」ではなく、権力に対する「抵抗」として捉えようとしている。先に紹介したハルプリンも、その一人である。彼はカミングアウトの政治性について以下のように述べている。

  

 カミング・アウトが不自由な状態からの解放だとしても、それはカミング・アウトが、権力の手の内から権力の外への逃げ道となるからではない。むしろカミング・アウトは、これまでとは異なる権力関係を起動させ、私的でかつ政治的な闘争の力学を変化させるのだ。カミング・アウトは、解放という意味ではなく、抵抗という意味での自由の行為である。

  

(Halperin 1995=1997: 49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

 確かにフーコーが主張したように、カミングアウトしたからといって権力の外側に出られるわけではない。しかし、だからといって、カミングアウトの持つ公的・政治的な意味が失われてしまったわけではない。カミングアウトは「これまでとは異なる権力関係を起動させ」、「私的で政治的な闘争の力学を変化させる」という意味において、なおも政治的な行為として捉えられ続けているのである。

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』pp. 44-45.

  

「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里)

| 09:16 | 「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里) - Ry0TAの日記

  

堀江有里『「レズビアン」という生き方ーキリスト教の異性愛主義を問う』pp. 41-42.

第1部「「レズビアン」というポジション」第4章「カミングアウト」から

  

つねに、同性愛者のカミングアウトは無化される危険にさらされている。では、カミングアウトが機能する場とは、どのような場であるのだろうか。風間孝は、それを受け取る側との「共同行為」であるとし、つぎのように述べる。

  

一般的には同性愛者が押し入れの外に出る行為をカミングアウトとみなされがちですが、私はそうではないと思います。押し入れから出る事は同性愛者自身がするのですが、出た時にまた押し入れの中に戻されてしまってはカミングアウトにはならない。同性愛者が押し入れの外にあり続ける為には同性愛者の力だけでは不可能だと思います。カミングアウトというのは言う側だけの問題ではなくて受け止める側の問題でもあると思うのです。そういう意味での『共同行為』だと考えています。

  

風間孝「共同行為としてのカミングアウト」『日本基督教団京都教区ニュース』特集号、2001年9月2日発行、「同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティへの差別問題を考える学習会」講演録(京都教区常設委員会主催、1999年1月21日)

  

ふたたびクローゼットに押し戻される力へ抵抗すること。異性愛主義への問いかけ。同性愛者がほかの同性愛者と繋がっていくと同時に、「異性愛」を相対化してゆくことのできる異性愛者と繋がっていくことー「共同行為」としてのカミングアウトの可能性と希望は、そんなところにあるのではないだろうか。