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Ry0TAの日記

2010-01-10

デブ専に目覚めたらしい王様の耳は

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ペンギンが登場する映画の予告編がTVで流れた。

極寒に生きるペンギンはとにかく厚い脂肪を持つというが、

迫力のプリプリ寸胴体型を眺めながら

「すごく抱き心地よさそうだな」

と呟くと、

  

「なに考えてるんだ(笑)」

  

と失笑された。

  

どういう意味だそれは。

そこまで僕は何を見てもスケベなことしか考えない人間だと思われていたのか。

  

ペンギン相手にまで!!

アガサ・クリスティ原作/ジェラルディン・マクイーワン主演「パディントン発4時50分」(2004)

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ジェラルディン・マクイーワン主演の『ミス・マープル』第1シーズン第3話、2004年作。

正月にAXN Mysteryで視聴した。

http://mystery.co.jp/program/agatha_marple/episode_01_003.html

  

原作は1957年。

  

  

おお、もうこれは、脚色で原型を留めていないと言っていいだろう。

1987年のジョーン・ヒクソン主演の旧シリーズも、新シリーズに比べたら原作に忠実かも知れないが、エピソードの改編もかなりあったし、物語全体のトーンが原作と違っていたように思う。

  

死体が列車から投げ込まれるという意表を突く事件の複雑さが際だつ作品だが、原作を読んだときに印象に残ったのは、死体が投げ込まれた舞台であるラザフォード・ホールで繰り広げられる、カネでしかつながっていない家族関係のどうしようもなさだったと思う。

  

遺産にたかることしか考えない家族はミステリにありがちだが、『パディントン〜』のクラッケンソープ家は、ありがちな「金持ち家族遺産相続もの」のステロタイプな設定というには生々しい。理由はたぶん、この作品が「カネを理由にした家族の支配や従属」のイヤらしさを描いているからで、これは何かしらリアルなのではないだろうか。

  

クラッケンソープ家の父親ルーサーは、自分が死んで祖父の遺産が入るのをを待っている息子たちを憎み、死んで息子たちを喜ばせまいとすることをほとんど生き甲斐とし、息子たちが先に死ぬことを喜びさえする。この歪んだ関係には、ルーサーが家業を継がなかったことで先代の怒りを買い、遺産を孫(ルーサーの子どもたち)が相続するまで信託にされたというクラッケンソープ家の遺産相続事情が絡んでいる。ルーサーが手にできるのは信託の配当だけで、自分で遺産を継げず、自分の子どもたちに祖父の遺産を継がせるために死ぬ役割しか持っていない。つまり、彼にとっては死なないことが、自分の手に家族の生殺与奪件があることを誇示し、子どもたちに対する親の権力を確かめられる唯一の手段なのだ。

  

息子たちも、当然それを知っているから、父親に愛情や敬意なんか持たないし、遺産が手に入るまでは我慢しなければならない義務に耐えている。血がつながっているからって合わない人間を好きになる義理はないよ、とばかりに、兄弟同士も冷淡に軽蔑し合っていることはなはだしい。

  

こんな人間たちの姿が、ミス・マープルに依頼されてクラッケンソープ家に潜入(?)したスーパーハウスキーパールーシーの厳しい、だが世間的なモラルにはとらわれない目で、容赦なく、けれどそれなりに公正に描かれる。

  

ルーシーは単なる外からの批判者ではなく、揃って自分にアプローチしてくるクラッケンソープ家の男たちを関心を抱き、その欠点を見抜きながら心を惹かれもする。この物語が、ありがちな「金持ち遺産相続もの」の条件を揃えていながら、もう少しリアルに、それぞれのエゴイズムと人生を持つ他人同士が「家族」のつながりだけで一緒にいることの「不自然さ」を描いている作品になっていると思われるのは、ルーシーの存在によるところが大きいのかもしれない。

  

「カネや体面を気にしなくてすむなら、家族なんかやってねえよ」

といわんばかりに(でもカネや体面は、それが欠ければ社会での生存を脅かす生命線だ。だからこれだけ家族に拘束力がある)、「家族」にまつわるモラルやファンタジーをはぎ取り、家族関係はつきつめれば経済問題・生存問題以外には何もないことを暴露してしまっている。そのあからさまさは、いっそすがすがしい。

  

唯一家族への忠誠や献身を示している人物は長女のエラで、彼女は兄弟たちが遺産のために家族と最低限のつながりを保って好き勝手に生きているのに対し、自分の欲望や不満はあからさまにせず、家事と横暴な父の世話に束縛された生活を送っている(しかも父、兄弟らはそれを当然視している)。彼女の立場は家族関係の別の具体的な抑圧を体現しているが、同時に彼女は自分の考えを持っている人間で、家族に尽くす生活にすべてを奪われているわけではないことが、繰り返し指摘されているのが印象に残る。殺された人間を除けば、エマは事件の最大の被害者といえるのだが、その打撃も彼女を傷つけず、早々に父親が死んで自由になれば幸福になることがミス・マープルによって予見されている。できすぎた、理想に走った結末(テキトーなやっつけにも見える)かもしれないが、家族関係の抑圧を描いた作品の中で、それはありうべき理想でありファンタジー(限界はあるが)だと思う。

  

と、こういう感想(むちゃくちゃ偏っているかも知れないが)を原作で持っていると、ドラマには、肝心のものが描かれていないような物足りなさを感じてしまう。

  

旧シリーズは、基本原作に忠実だが、遺産問題からくるルーサー・クラッケンソープの暴力性というか卑小さが描かれておらず、ルーサーはただの偏屈な頑固じじいになってしまっていた。フィクションの頑固じじいキャラはたしかに味があるが、頑固じじいを甘やかすのはその有害さを隠蔽するのではないかと個人的には思う。このためか、家族のあいだの緊張や倦怠感も薄れている。ルーシーのスーパー家政婦ぶりはすごいが、鋭い観察者・探偵助手という面は抑えられ、単に彼女がどう2人の男に惹かれ、どうやって1人を選んでゆくかというロマンスがおもな見せ場にされている。

  

新シリーズは、もう、止めどもないぐらい手を入れている。

遺産相続権を剥奪されたルーサーの人物設定をはじめ、画家の次男セドリック、実業家の三男ハロルド、山師の四男アルフレッド、全部人物造形が変わっている(兄弟順まで変更されてる)。1人1人のドラマを膨らませて丁寧に描こうとしている、とも言えるかもしれないが、登場人物を共感的に描くことは、かれらがそれぞれに持っていた加害性をうやむやにしてしまう。

  

そして、なにより大きな改変は、「愛」の強調だろう。殺人の動機が大きく変更されていて、さらには最後に明かされるその動機と響き合うように,冒頭にルーサーの亡妻(子どもたちの母親)が死の間際に「大切なのは愛」と言い残すという原作にないエピソードが追加されている。これは、だまされたエマに同情した改変かもしれない。だがこの親切な計らいのせいで、卑劣な犯罪の被害を受けても彼女は立ち直り幸せになりうるという原作のファンタジーがしぼんでしまわないだろうか。エマが登場する場面は、ルーサーが(すっかり高潔な設定になっているのだが、エマの世話をさんざん受けてきた点は変わらないのだ)優しくエマを労るシーンで終わる。「いい場面」だが、旧シリーズではミス・マープルが「エマはこの家から出て行くのよっ!」と主役の権限をふるって(?)あっさり解放してくれた家から、エマは愛のせいで出て行けなくなってしまっている。

  

あれこれ難癖をつけてしまうが、旧シリーズも新シリーズも、ドラマとしてはそれぞれに面白いし、よくできている。いろんな脚色も、原作から違った魅力を引き出そうとする趣向として、楽しめる。

ただ、現実にできないことを実現する力を持つフィクションが、「家族」や「恋愛」についてのモラルやファンタジーをはぎ取ることには実は不得手で、その種のモラルやファンタジーを再生産し強化するのにほとんどいつも手を貸してしまうーーなんてことを、この作品のドラマ化を見て考えてしまったのだった。