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Ry0TAの日記

2010-01-04

ミス・マープルと「クイーア」

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ミス・マープルは,費用のこと、遠すぎること、旅の途中のさまざまな困難、セント・メアリー・ミードの家を留守にしなければならないことなどを理由に、行き渋った。レイモンドがいっさいの問題を解決してしまった。本を執筆中の彼の友人が、田舎の静かな家を一軒借りたがっていた。「家のほうはその男がちゃんと面倒をみてくれますよ。彼は家事に関してたいそう几帳面な男なんです。実は、クイーアでしてね。つまりその—」

 彼はいささか当惑していいよどんだーだがいくらジェーンおばさんでも、同性愛(クイーア)のことくらい聞いているに違いない。

  

アガサ・クリスティー/永井淳訳『カリブ海の秘密』(ハヤカワ文庫), p.13.

  

  

アガサ・クリスティで、いきなりクィアに出会った。クリスティ作品に「クィア」という言葉が出てきたことって、他にもあるんだろうか。クリスティを全部読んでいるわけではないので、僕は知らない。

  

英語圏の「クィア」という言葉の使われかたの変遷について、いまさらだがウィキペディアで確認してみる。

  

1904年のシャーック・ホームズ「第二の汚点」では、この言葉はまだ完全に非性的な文脈で使われていた。(中略)・・・しかし、この作品が出版された時代には、この言葉はすでに性的倒錯者(特に同性愛者と/または男らしくない男性)の含意を持ち始めていた。それは19世紀末にはすでに知られていた。この意味でこの言葉が使われている初期の記録は、第9代クイーンズベリ伯爵ジョン・ショルトー・ダグラスの息子アルフレッド・ダグラス卿[オスカー・ワイルド同性愛裁判のきっかけを作った恋人]への手紙である。

その後、ほぼ20世紀を通して、「クィア」は男性とのアナルセックスやオーラルセックスで受け身または受動的になると信じられてきた男らしくないゲイ男性や、その他の非伝統的なジェンダー的振る舞いを見せる者に対する軽蔑的な言葉として盛んに用いられた。そのうえ、「挿入者」の役割を果たしていた男らしい男性は、しばしば「ストレート」と考えられた。近代アメリカで初めてこの言葉が出版物で用いられたのは、『Variety』誌である。

In the 1904 Sherlock Holmes story The Adventure of the Second Stain, the term is still used in a completely non-sexual context (Inspector Lestrade is threatening a misbehaving constable with "finding himself in Queer Street", i.e., in this context, being severely punished). By that time that story was published, however, the term was already starting to gain its implication of sexual deviance (especially that of homosexual and/or effeminate males), which is already known in the late 19th century; an early recorded usage of the word in this sense was in a letter by John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry to his son Lord Alfred Douglas.

Subsequently, for most of the 20th Century, "queer" was frequently used as a derogatory term for effeminate gay males who were believed to engage in receptive or passive anal/oral sex with men, and others exhibiting untraditional gender behavior. Furthermore, masculine males, who performed the role of the 'penetrator' were in some cases considered 'straights'. [3] The first time it was used in print in America in the modern era was in Variety magazine

  

http://en.wikipedia.org/wiki/Queer#Traditional_usage

  

クリスティのミス・マープル・シリーズが書かれたのは1930ー1971年、『カリブ海の秘密』は1964年の作品だ。まさに「クイーア」が「セックスで受け身になる男らしくない男性同性愛者」「伝統的ジェンダーを逸脱した者」に対する軽蔑的な呼称として用いられていた時代のただ中である。和訳するなら「おかま」とほぼ同じ、上の翻訳も「実は、おかまでしてね、つまりその—」にすればいいじゃないかとも思うが、「クイーア」としたのは、「ジェーンおばさんは聞いたことがないかもしれない言葉」のニュアンスを出したかったのだろうか。「おかま」を聞いたことのない日本語読者は少なそうだ。

  

上の引用に登場する「クイーア」には、あくまで日本語訳を読んだ感触としてだが、蔑称的なニュアンスは感じられない。レイモンドの友人の作家の話をしているのだから、まあ当たり前だが。

ミス・マープルの甥のレイモンド・ウェストは、ミス・マープルによれば「どうにも虫の好かない人間たちが、いかにも妙ちきりんなことばかりするような本」(前掲書, p.10)を書いている現代小説家である。クリスティはどんな作家をイメージしてたのか、僕はなんとなくビート世代っぽいのを想像していたが、1930年代からおまえの小説には不愉快な人間ばかり出てくるとミス・マープルに言われているので、たぶん違うだろう。

とにかく、規範に縛られない感性を持ち、「クイーア」であることをカムアウトしている同業者の友人もいたりして、ヘテロセクシストではないリベラルな思想の持ち主がレイモンドである。というか、その進歩的なリベラルさを示すために、「クイーア」がここで登場しているのかもしれない。

  

けれど、このレイモンドのリベラルさは、あらかじめミス・マープルの言葉に出さないぼやきに腐されているのだ。

カリブ海の秘密』のオープニングは、「クイーア」が登場するとともに、セクシュアリティについて随分饒舌な語りのある箇所である。

  

“セックス”などという言葉は、ミス・マープルの若いころは人の口の端にのぼらなかったものだ。しかしセックスそのものはふんだんにあったしーただ今ほど話題にならなかっただけだー当節よりもはるかに享楽されていた。あるいは少なくともミス・マープルにはそう思えた。ふつうセックスの享楽には罪悪のレッテルが貼られるが、それでも現代の様相—セックスが一種の義務になりはてている様相に比べれば、そのほうがずっとましだという感は否めなかった。

  

田園生活が牧歌的だと考えるのは見当違いもはなはだしかった。レイモンドのような人はその点についてたいそう無知だった。教区におけるお勤めの間に、ミス・マープルは田園生活なるものの現実を知りつくしていた。それについて書くことはいわずもがな、人前で話したいとも思わなかった。—がとにかくそれらを知ってはいた。自然なもの不自然なものとりまぜて、いたるところにあるセックス。婦女暴行近親相姦、あらゆる種類の性的倒錯(その中には、これまでに何冊も本を書いているオクスフォード出の聡明な青年たちでさえ、話に聞いたこともないと思われるような倒錯まである)。

  

前掲書, pp.10-11.

  

  

これは、クリスティ自身の考えだろうか、違うだろうか?

ミス・マープルはクリスティの祖母がモデルだというが、『カリブ海の秘密』のころにはクリスティは70代、ミス・マープルに近いスタンスで時代を眺めていたかも知れない。分からないことだが。

  

ミス・マープルの時代のセクシュアリティの文化のありように共感するわけではない。結婚以外のセクシュアリティが存在するとしても、それが沈黙によって性暴力と一緒にアンダーグラウンドに隠蔽されようとしている社会では、僕は生きて行くことができないから。だが、面白いな、と、このくだりが興味深く思われるのは、カリカチュアライズされたミス・マープルとレイモンドのセックスをめぐる世代的断絶が、伝統的な性の規範、対、解放という図式ではないことがはっきりと描かれているところだ。むしろ、飯野由里子さんが紹介している性の言説をめぐるフーコーの理論をなぞっているようにも見えるのだが、見当違いだろうか。

  

フーコーによると、近代に起こった「性についての、文字通りの言説の爆発」によって、性について「どのような時」に「どのような状況」のもと「どのような話し手の間で」語られるべきなのかに関する統制が行われるようになった(フーコー1986:25-26)。そして、こうした統制の結果,一方では「異性愛に基づく一夫一妻制」が「語られることのより少ない」「一つの基準として機能」するようになり、他方では、この基準から外れるものはみな「周縁的性現象」として「自分がいかなるものであるかという難しい告白をする番」(ibid:25-26)とされたのである。したがって、フーコーにとって「周縁的性現象」の出現とは、性に関する言説の抑圧が緩んだ徴候などではない。むしろ、それは性に対する「権力の形式」が「禁忌」から「管理」へと移ったことを意味している。

  

古風なミス・マープルを半ば憐れみながら、むしろミス・マープルと彼女が暮らす村の生活に性を忌避する規範を(あたかもそれがあって当然であるかのように)押しつけ、ミス・マープルの前で「クイーア」である友人のことをあたかも語ってはいけないことのように「いいよど」んでいるのは、じつはレイモンドの方なのである。一方、セックスについて何も語る気はないミス・マープルは、あらゆる種類のセクシュアリティが小さな村にも当たり前に存在していることを知っている。

  

僕が知る限り、クリスティは異性以外の性を愛する人間も、身体とは異なるジェンダーを生きる人間も描かなかった。クリスティ作品は、基本どこまでもヘテロノーマティヴだ。

けれど、クリスティの世界に、ヘテロノーマティヴなジェンダーセクシュアリティを問い直す契機がなかったとはいえないだろう。クリスティが1964年、74歳のときに「クイーア」という言葉をどんなイメージとともに使ったのか分からないけれど、なんだかその言葉は、構造を挑発する亀裂を起こす力を持っているような気がする。