Hatena::Groupqueeringme

Ry0TAの日記

2009-04-29

「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子)

| 10:35 | 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』

第1章「<わたし>/<わたしたち>を語ることの政治性」第2節「カミングアウトー<解放>から<抵抗>へ」pp. 40-44.

  

ゲイ解放運動の流れの中で、カミングアウトが「革命」「解放」と肯定的に捉えられてきたことに対する批判を、フーコー、ハルプリン、バトラーの3者を上げて紹介している。

  

カミングアウトすること自体が革命的であり開放的であるという解放主義的な思想は、現在では多くの批判に晒されている。その先駆けとなったのが、ミシェル・フーコーによる批判である。

  

フーコーは『性の歴史』第1巻の中で、近代以降、性に関する言説は抑圧されてきたのではなく、むしろ煽動されてきたのだと主張した。性に関する言説が抑圧されてきた側面にではなく、むしろそれが積極的に生み出されてきた側面に目を向けようとしたフーコーの手法は、カミングアウトに関しても、それまでとは異なる認識枠組みを提供することになった。

  

フーコーによると、近代に起こった「性についての、文字通りの言説の爆発」によって、性について「どのような時」に「どのような状況」のもと「どのような話し手の間で」語られるべきなのかに関する統制が行われるようになった(フーコー1986:25-26)。そして、こうした統制の結果,一方では「異性愛に基づく一夫一妻制」が「語られることのより少ない」「一つの基準として機能」するようになり、他方では、この基準から外れるものはみな「周縁的性現象」として「自分がいかなるものであるかという難しい告白をする番」(ibid:25-26)とされたのである。したがって、フーコーにとって「周縁的性現象」の出現とは、性に関する言説の抑圧が緩んだ徴候などではない。むしろ、それは性に対する「権力の形式」が「禁忌」から「管理」へと移ったことを意味している。そして、この時期に性を管理するために積極的に生み出されたのが、性に関するさまざまな科学的言説(医学的、心理学的、病理学的な言説)だったのである。

  

さらに重要なことは、こうした言説が「周縁的性現象」を「秘密として設定すること(つまり発見されるためにはまず隠れるように強制すること)」(ibid:54)で、それらを発見したという点である。近代において同性愛を含むさまざまな「周縁的性現象」が発見された背景には、実はこうしたトリックが潜んでいる。だとするならば、自らを同性愛として「発見」し、その「発見」について語るという実践も,権力の外側に位置しているのではなく、性を管理するために発明された権力の内側に埋め込まれていることになる。言葉を換えれば、自らの性について語ることは、性を管理するために生み出された権力の一形式なのである。したがって、自らの性について語ることを抑圧や権力関係から自由な解放と安易に結びつけてしまうことは、その語りが生み出された権力関係を不問に付すことになってしまう。フーコーがカミングアウトを解放と結びつけて捉える思想を批判したのはこのためである。

  

フーコー/渡辺守章訳『性の歴史I 知への意志』新潮社, 1986.

isbn:4105067044

  

現在では多くの論者が、カミングアウトに対してこうした立場をとっている。たとえば、ゲイ・スタディーズの理論家であるデイビッド・M・ハルプリンはカミングアウトに「肯定的」で「解放的」な側面があることを認めつつも、カミングアウトしたことによって生じうる新たな「危険」や「制約」について以下のように述べている。

  

クローゼットからのカミングアウトに何か自己肯定的な、実際解放的なものがあるとしても、それは、カム・アウトすれば、従属状態から逃れ、一切の足枷のない自由な状態になれるからではけっしてない。むしろ逆だろう。カム・アウトすることは、また違った種類の危険と制約に自らをさらすことであり、自分で手軽なスクリーンになって、ストレートの人々がいつだってゲイに対して抱いている幻想を引き受けkることである。そしてなにより、自分の身振り、発言、表現、意見のすべてに、ホモセクシュアルのアイデンティティを認めた者、という、とてつもなく大きな社会的意味が加わってくる。(Halperin 1995=1997: 48-49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

他方、ジュディス・バトラーは、カミングアウトした「主体」は「従属をまぬがれることができるだろうか」と、以下のような問いを投げかけている。

  

「カミング・アウト」の言説は明らかにその目的をはたした。だがその危険性はどうだろうか。「アウト」と看做されている人々が、自分が意図してそうなったかどうかにかかわらず、失業とか公的攻撃や暴力の対象となることが最近とみに増えてきているが、私がここで言っているのはそのことではない。「アウト」な「主体」が従属をまぬがれ、最終的に自由になることができるだろうか。つまり、ゲイやレズビアンの主体を、いくつかのやり方で服従させる隷属状態は、いったん「アウトである」ことが主張されるや、抑圧を続けたり、もっとも陰湿なやり方で抑圧するということがありえるだろうか。(Butler 1991=1996: 118.)

  

ジュディス・バトラー/杉浦悦子訳「模倣とジェンダーへの抵抗」『イマーゴ 特集 セクシュアリティ』5月号(1996), pp. 116-135.

  

カミングアウトしたからといって、抑圧から解放されたり自由になれたりするわけではない。むしろ、カミングアウトしたことで、レズビアンやゲイに対する抑圧が、わたしたちが予期しなかったようなかたちで続けられていったり、あるいは逆に増大してしまったりする可能性も残されているというのである。

  

「抵抗」としてのカミングアウト (2009年7月21日追記)

飯野は、70年代ゲイ解放運動で称揚されたという「カミングアウト=解放」という理念が多くの思想家に批判されたことを紹介したのち、カミングアウトは「権力関係に亀裂を入れてゆく」「抵抗」である、という捉え方に移る。

  

 フーコーにとって抵抗とは,解放とは異なり、「権力の関係の戦略的場において」存在し、権力の「排除不可能な相手として書き込まれている」(ibid:124)。そして、抵抗はそのような相手として書き込まれることで、「社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破戒し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り込み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」(ibid:124)のである。つまり、フーコーの枠組みにおいてもなお、抵抗という形で,権力関係に亀裂を入れてゆくことは可能であるということになる。

  

 フーコーによるこうした議論の影響を受けて,現在では多くの論者がカミングアウトを権力からの「解放」ではなく、権力に対する「抵抗」として捉えようとしている。先に紹介したハルプリンも、その一人である。彼はカミングアウトの政治性について以下のように述べている。

  

 カミング・アウトが不自由な状態からの解放だとしても、それはカミング・アウトが、権力の手の内から権力の外への逃げ道となるからではない。むしろカミング・アウトは、これまでとは異なる権力関係を起動させ、私的でかつ政治的な闘争の力学を変化させるのだ。カミング・アウトは、解放という意味ではなく、抵抗という意味での自由の行為である。

  

(Halperin 1995=1997: 49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

 確かにフーコーが主張したように、カミングアウトしたからといって権力の外側に出られるわけではない。しかし、だからといって、カミングアウトの持つ公的・政治的な意味が失われてしまったわけではない。カミングアウトは「これまでとは異なる権力関係を起動させ」、「私的で政治的な闘争の力学を変化させる」という意味において、なおも政治的な行為として捉えられ続けているのである。

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』pp. 44-45.