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Ry0TAの日記

2009-04-29

次世代再生産とバイオテクノロジー(Judith Butler)

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ジュディス・バトラーの2001年のインタビュー。

The desire for philosophy - Lola Press

  

主題は多岐に亘るのだけれど、バイオテクノロジーによる次世代再生産についてのやりとり。

  

社会改革の手段としてのバイオテクノロジーについてはどうですか?フェミニストは、バイオテクノロジーで人工的に子どもを作るという可能性に反対しています。しかし、バイオテクノロジーによって自分自身で子どもを持つこと、そうして男性・女性の二元的な思考、古い異性愛システムをいつまでも再生産しないようにすることを求めて戦うフェミニストはいないのでしょうか?

What about biotechnology as a means of social transformation? Feminists are against biotechnology and the possibility of producing children technologically. But shouldn't there be a feminists fight for biotechnology and having children on our own and so trying not to reproduce the binary thinking of male and female, the old heterosexual system on and on?

  

いいえ。私はそうは思いません。私は、あらゆる種類の社会工学と言われるものに反対しています。私たちはどんな種類の人間が作られるべきかということを選択すべきではありません。そして、異性愛を克服するという目的で、バイオテクノロジーを[利用する権利を]求めて戦うということは、あるべきでないと思います。私が考えるのはただ、こういうことです。異性愛者は、いつでも再生産の技術を利用しています。異性愛者のカップルが子どもを欲しいと望んだ場合、かれらは通常ひとつの、またはそれ以外の再生産技術にアクセスします。私が問いたいのはただ1つ、同性愛者のカップルや独身女性はそのような技術に同様にアクセスすることができるのかどうか、ということです。私にとっては、それは権利についての政治的な問題なんです。

No. Not for me. I am against what we call social engineering of all kinds. We shouldn't be selecting what kinds of human beings should be made. And I think we shouldn't fight for biotechnology in order to overcome heterosexuality. My point is only: the heterosexuals make use of reproductive technology all the time. When a heterosexual couple wants to have children they get usually access to reproductive technology in one way or another. The only question I have is whether gay couples or single women are not given the same access to that kind of technology. For me it is a question of politics of access.

  

ふつーのことを言っとるのだが。

科学技術による再生産をどう捉えるか、社会の中に組み込んでゆくかは、さまざまな考えかたがある。

僕はバトラーと違って、テクノロジーによる次世代再生産は、望む人はやればいい、と思う。

だが、それには、関わる人間、生まれる子ども、精子提供者や代理母をトラブルに巻き込まないきちんとした制度が必要だ。

代理母制が、経済格差を利用したグローバル・ビジネスになっていることは、すでに有名だ。

また、特権的にいつでも再生産技術にアクセスできるのは異性愛者だけだといっても、例えば不妊治療が女性に大きな負担を強いているということや、人工授精による代理母出産が、「家の子ども」を作るという圧力のもと、近親の女性をほぼ強制的に巻き込むケースもあるということを考えると、単に「特権」という問題ではない。

次世代再生産・家族形成の多様化が、どんな倫理と制度を作っていけるかという問題である。

  

バトラーが指摘するのは、現在、次世代再生産技術・制度へのアクセスが、異性愛カップル以外の人間、独身女性(または男性)や同性愛者カップル(カップルでなくても、シングルでもいいわけだが)に不可能である、またはハードルが高いという、基本的な不均衡だ。

(バトラー自身は養子縁組で子どもを持っているが、子どもを持とうとしたとき、養子斡旋機関に「レズビアンという養親のカテゴリーを持たない」と拒絶されたという。結局、司法判断を仰いで養子縁組をすることができたが、州によっては難しい、自分は好運だったとインタビューの中で語っている。)

  

ヘテロセクシズム(異性愛主義)、ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)についてのメモ

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以下は目測的な覚え書き。あとから

  • 典拠を調べる。
  • 見落とし・偏向を補う。

  

ヘテロセクシズム(異性愛主義)とヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)

  

encyclopedia of gay, lesbian, bisexual, transgender & queerの用語集から

Heterosexism

ヘテロセクシズムは、「セクシズム(性差別主義)」から展開したもので、異性愛を特権化して、他のセクシュアリティを傷つけ排斥するショービニズム(※極端なナショナリズムや性差別主義。ここでは異性愛の優越に固執する偏向を指すか)を非難して言う言葉である。

Heterosexism, an extension of "sexism," is a pejorative term designating the chauvinism that privileges heterosexuality to the detriment or exclusion of other sexualities.

  

heteronormativity

ヘテロノーマティヴィティは、異性愛と異性愛の規範が普遍的なものであり、少なくとも認めうる条件であるということを前提とする考え方。ヘテロセクシズムと密接にかかわっており、多くの方法で性的少数者に否定的に作用する。異性愛的な要請を満たせない人間を積極的に抑圧し、性的に異なる存在を不可視化する。

Heteronormativity is the assumption that heterosexuality and heterosexual norms are universal or at least the only acceptable conditions. Closely related to heterosexism, heteronormativity negatively affects glbtq people in a host of ways, from actively oppressing those who do not fulfill heterosexual expectations to rendering sexual dissidents invisible.

  

ヘテロセクシズムとヘテロノーマティヴィティは、基本的に同じ社会の権力構造を批判している。

  

ヘテロセクシズムが、異性愛を支配的・中心的セクシュアリティとし、他のセクシュアリティを劣等なものと抑圧する権力関係を強調しているのに対し、

  

ヘテロノーマティヴィティは、社会におけるジェンダー・セクシュアリティの「規範」が及ぼす影響力に着目し、「(規範的)異性愛=普遍」という規範を再生産し続けるために、そこから逸脱するジェンダー・セクシュアリティを周縁化する(または、「(規範的)異性愛=普遍・自然」のドグマを正当化するために、周縁的ジェンダー・セクシュアリティを有徴的存在として作り出す)システムを指摘する。

  

(↑ ※要典拠)

  

ヘテロセクシズム

  

  • ヘテロセクシズム(異性愛主義)は、当たり前だがヘテロセクシュアリティ(異性愛)・ヘテロセクシュアル(異性愛者)とは違う。ヘテロセクシストでないヘテロセクシュアルはいくらでもいる。が、現代社会では、誰もが(異性愛者も非異性愛者も)ヘテロセクシズムの構造の中に巻き込まれている。

  

  • ヘテロセクシズムが想定する「異性愛」とは、「男女が性的に欲求しあい(番になって再生産する)」「規範的異性愛」である。

  

  • 「規範的異性愛」は、「男/女」の性別二元的ジェンダー規範を前提にしている。現社会のジェンダー規範は性差別的であり、ヘテロセクシズムは必然的に女性差別と女性蔑視を伴う。

  

  • 竹村和子は、異性愛主義であるとともに性差別主義である社会の仕組みのことを、「(ヘテロ)セクシズム」と名づけている。ここでは、異性愛/同性愛の二項対立的なカテゴリが、男性/女性という二項対立的なカテゴリと関連づけられて、組織化されている。

  

  • つまり、ヘテロセクシズムにおいて、規範的異性愛(正しいセクシュアリティ)からの逸脱は、「正しいジェンダー」(ジェンダー規範、当然女性差別的であり、特権的地位に置かれる男性にもしばしば抑圧的)からの逸脱として捉えられる。ゲイが「女性的」(またはマッチョな「アニキ」という、いずれにせよ「平均的男性イメージ」から外れた姿)、レズビアンが「男性的」または「(男を受けいれられない)不完全な女」としてステレオタイプ化されるのは、そのためである。

  

(↑ ※要典拠)

  

ヘテロノーマティヴィティ

  

  • 1990年代、クィア理論の主要概念の1つとして生み出される。  
    • 「ヘテロセクシズム」に対する批判が、自ら「異性愛/同性愛」の二項対立に陥り、性別二元論に基づく二元的セクシュアリティを固定してしまったことを批判する。(たぶん。← ※要典拠)

  

  • ヘテロノーマティヴィティは、「異性愛/同性愛」という二元的な分類がなぜ生まれるのかという「規範」のシステムを問う。

  

  • ヘテロノーマティヴな社会は、「異性愛」を「普遍的」で「自然」なものと規範化するために、さまざまな科学的、倫理的言説を動員する。そのために、対置される「不自然」なものとして、「同性愛」やその他の「性的倒錯」が、「異性愛」の外部に作り出される。
    • 例えば、個々の人間のセクシュアリティは実際には多様であり、「異性に惹かれる」「同性に惹かれる」で分けられるものではない。が、ヘテロノーマティヴィティは、「(規範的)異性愛」に「正しさ・自然さ」を与えるために、「異性愛」と「それ以外」を切り分ける。「異性愛」が人間のセクシュアリティの標準と看做され、それ以外のセクシュアリティは不可視化→隠蔽→クローゼット化される。

  

  • ヘテロノーマティヴ社会が標準化する「異性愛規範」とは、「その社会で規範的とされる異性愛」である。その規範に適応できないものは、むろん「異性愛者」だろうと、周縁化され、疎外される。

  

  • 「異性愛規範」の前提にあるのは、もちろん性別二元論に基づく「ジェンダー規範」である。だから「異性愛規範」は、女性差別・女性嫌悪をはらむ。

  

  • バトラーは、人間のジェンダー、「自然(生物学的)」とされるセックスも、実際には規範によって作られるもの、ジェンダーの規範の果てしない引用・反復によってなりたつものと看做す。人間は、ジェンダーの諸規範を参照し、引用・反復し続けることで、はじめて「男」「女」というジェンダー的存在でありうる。ヘテロノーマティヴなジェンダー規範は、セックス/ジェンダー/セクシュアリティの一貫性を要請している。セックス/ジェンダーの不一致(トランスジェンダー)や、ジェンダー/セクシュアリティの不一致(非異性愛者)は、異性愛規範から脱落し周縁化される(そしてまた「同性愛」「トランスジェンダー」という規範的言説に回収される)。

  

  • 規範の果てしない反復によって維持されるヘテロノーマティヴ社会の構造は、単純な権力関係、優劣関係ではない。「自然」という言説で固められ、規範に適応すれば善しとされ「幸せ」と評価され、逸脱すれば何らかの社会的制裁を受けるか、不安や欠落感にさいなまれる。相互監視システムのようなものに近い。

  

(↑ ※大丈夫か?要典拠)

「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子)

| 10:35 | 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』

第1章「<わたし>/<わたしたち>を語ることの政治性」第2節「カミングアウトー<解放>から<抵抗>へ」pp. 40-44.

  

ゲイ解放運動の流れの中で、カミングアウトが「革命」「解放」と肯定的に捉えられてきたことに対する批判を、フーコー、ハルプリン、バトラーの3者を上げて紹介している。

  

カミングアウトすること自体が革命的であり開放的であるという解放主義的な思想は、現在では多くの批判に晒されている。その先駆けとなったのが、ミシェル・フーコーによる批判である。

  

フーコーは『性の歴史』第1巻の中で、近代以降、性に関する言説は抑圧されてきたのではなく、むしろ煽動されてきたのだと主張した。性に関する言説が抑圧されてきた側面にではなく、むしろそれが積極的に生み出されてきた側面に目を向けようとしたフーコーの手法は、カミングアウトに関しても、それまでとは異なる認識枠組みを提供することになった。

  

フーコーによると、近代に起こった「性についての、文字通りの言説の爆発」によって、性について「どのような時」に「どのような状況」のもと「どのような話し手の間で」語られるべきなのかに関する統制が行われるようになった(フーコー1986:25-26)。そして、こうした統制の結果,一方では「異性愛に基づく一夫一妻制」が「語られることのより少ない」「一つの基準として機能」するようになり、他方では、この基準から外れるものはみな「周縁的性現象」として「自分がいかなるものであるかという難しい告白をする番」(ibid:25-26)とされたのである。したがって、フーコーにとって「周縁的性現象」の出現とは、性に関する言説の抑圧が緩んだ徴候などではない。むしろ、それは性に対する「権力の形式」が「禁忌」から「管理」へと移ったことを意味している。そして、この時期に性を管理するために積極的に生み出されたのが、性に関するさまざまな科学的言説(医学的、心理学的、病理学的な言説)だったのである。

  

さらに重要なことは、こうした言説が「周縁的性現象」を「秘密として設定すること(つまり発見されるためにはまず隠れるように強制すること)」(ibid:54)で、それらを発見したという点である。近代において同性愛を含むさまざまな「周縁的性現象」が発見された背景には、実はこうしたトリックが潜んでいる。だとするならば、自らを同性愛として「発見」し、その「発見」について語るという実践も,権力の外側に位置しているのではなく、性を管理するために発明された権力の内側に埋め込まれていることになる。言葉を換えれば、自らの性について語ることは、性を管理するために生み出された権力の一形式なのである。したがって、自らの性について語ることを抑圧や権力関係から自由な解放と安易に結びつけてしまうことは、その語りが生み出された権力関係を不問に付すことになってしまう。フーコーがカミングアウトを解放と結びつけて捉える思想を批判したのはこのためである。

  

フーコー/渡辺守章訳『性の歴史I 知への意志』新潮社, 1986.

isbn:4105067044

  

現在では多くの論者が、カミングアウトに対してこうした立場をとっている。たとえば、ゲイ・スタディーズの理論家であるデイビッド・M・ハルプリンはカミングアウトに「肯定的」で「解放的」な側面があることを認めつつも、カミングアウトしたことによって生じうる新たな「危険」や「制約」について以下のように述べている。

  

クローゼットからのカミングアウトに何か自己肯定的な、実際解放的なものがあるとしても、それは、カム・アウトすれば、従属状態から逃れ、一切の足枷のない自由な状態になれるからではけっしてない。むしろ逆だろう。カム・アウトすることは、また違った種類の危険と制約に自らをさらすことであり、自分で手軽なスクリーンになって、ストレートの人々がいつだってゲイに対して抱いている幻想を引き受けkることである。そしてなにより、自分の身振り、発言、表現、意見のすべてに、ホモセクシュアルのアイデンティティを認めた者、という、とてつもなく大きな社会的意味が加わってくる。(Halperin 1995=1997: 48-49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

他方、ジュディス・バトラーは、カミングアウトした「主体」は「従属をまぬがれることができるだろうか」と、以下のような問いを投げかけている。

  

「カミング・アウト」の言説は明らかにその目的をはたした。だがその危険性はどうだろうか。「アウト」と看做されている人々が、自分が意図してそうなったかどうかにかかわらず、失業とか公的攻撃や暴力の対象となることが最近とみに増えてきているが、私がここで言っているのはそのことではない。「アウト」な「主体」が従属をまぬがれ、最終的に自由になることができるだろうか。つまり、ゲイやレズビアンの主体を、いくつかのやり方で服従させる隷属状態は、いったん「アウトである」ことが主張されるや、抑圧を続けたり、もっとも陰湿なやり方で抑圧するということがありえるだろうか。(Butler 1991=1996: 118.)

  

ジュディス・バトラー/杉浦悦子訳「模倣とジェンダーへの抵抗」『イマーゴ 特集 セクシュアリティ』5月号(1996), pp. 116-135.

  

カミングアウトしたからといって、抑圧から解放されたり自由になれたりするわけではない。むしろ、カミングアウトしたことで、レズビアンやゲイに対する抑圧が、わたしたちが予期しなかったようなかたちで続けられていったり、あるいは逆に増大してしまったりする可能性も残されているというのである。

  

「抵抗」としてのカミングアウト (2009年7月21日追記)

飯野は、70年代ゲイ解放運動で称揚されたという「カミングアウト=解放」という理念が多くの思想家に批判されたことを紹介したのち、カミングアウトは「権力関係に亀裂を入れてゆく」「抵抗」である、という捉え方に移る。

  

 フーコーにとって抵抗とは,解放とは異なり、「権力の関係の戦略的場において」存在し、権力の「排除不可能な相手として書き込まれている」(ibid:124)。そして、抵抗はそのような相手として書き込まれることで、「社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破戒し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り込み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」(ibid:124)のである。つまり、フーコーの枠組みにおいてもなお、抵抗という形で,権力関係に亀裂を入れてゆくことは可能であるということになる。

  

 フーコーによるこうした議論の影響を受けて,現在では多くの論者がカミングアウトを権力からの「解放」ではなく、権力に対する「抵抗」として捉えようとしている。先に紹介したハルプリンも、その一人である。彼はカミングアウトの政治性について以下のように述べている。

  

 カミング・アウトが不自由な状態からの解放だとしても、それはカミング・アウトが、権力の手の内から権力の外への逃げ道となるからではない。むしろカミング・アウトは、これまでとは異なる権力関係を起動させ、私的でかつ政治的な闘争の力学を変化させるのだ。カミング・アウトは、解放という意味ではなく、抵抗という意味での自由の行為である。

  

(Halperin 1995=1997: 49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

 確かにフーコーが主張したように、カミングアウトしたからといって権力の外側に出られるわけではない。しかし、だからといって、カミングアウトの持つ公的・政治的な意味が失われてしまったわけではない。カミングアウトは「これまでとは異なる権力関係を起動させ」、「私的で政治的な闘争の力学を変化させる」という意味において、なおも政治的な行為として捉えられ続けているのである。

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』pp. 44-45.

  

「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里)

| 09:16 | 「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里) - Ry0TAの日記

  

堀江有里『「レズビアン」という生き方ーキリスト教の異性愛主義を問う』pp. 41-42.

第1部「「レズビアン」というポジション」第4章「カミングアウト」から

  

つねに、同性愛者のカミングアウトは無化される危険にさらされている。では、カミングアウトが機能する場とは、どのような場であるのだろうか。風間孝は、それを受け取る側との「共同行為」であるとし、つぎのように述べる。

  

一般的には同性愛者が押し入れの外に出る行為をカミングアウトとみなされがちですが、私はそうではないと思います。押し入れから出る事は同性愛者自身がするのですが、出た時にまた押し入れの中に戻されてしまってはカミングアウトにはならない。同性愛者が押し入れの外にあり続ける為には同性愛者の力だけでは不可能だと思います。カミングアウトというのは言う側だけの問題ではなくて受け止める側の問題でもあると思うのです。そういう意味での『共同行為』だと考えています。

  

風間孝「共同行為としてのカミングアウト」『日本基督教団京都教区ニュース』特集号、2001年9月2日発行、「同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティへの差別問題を考える学習会」講演録(京都教区常設委員会主催、1999年1月21日)

  

ふたたびクローゼットに押し戻される力へ抵抗すること。異性愛主義への問いかけ。同性愛者がほかの同性愛者と繋がっていくと同時に、「異性愛」を相対化してゆくことのできる異性愛者と繋がっていくことー「共同行為」としてのカミングアウトの可能性と希望は、そんなところにあるのではないだろうか。