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Ry0TAの日記

2009-04-30

立てるだろうか?

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イチカワユウさんのブログで、こんなゲイ・ジョークを教えて貰う。

  

Are You Gay? ー押して,押して、押し倒されろ!

  

僕がまっさきに思い出したのは、『イン&アウト』のラスト・シーンだった。

イン&アウト [DVD]

イン&アウト [DVD]

  

地方の小さな町から出た若手俳優が、ゲイを演じた主演映画のアカデミー賞授賞式で、高校時代の恩師がゲイだと全世界にアウティングする(『フィラデルフィア』のアカデミー賞授賞式でのトム・ハンクスがモデルになっている)。呑気な町は、ゲイの高校教師をめぐり大騒ぎ(イン&アウト)に。

騒動は、教師の生活を激変させただけには留まらなかった。保守的な校長と教頭は、次第に彼を疎んじ始め、彼の地位は危うくなる。

卒業式の日、最優秀教師賞を授与されるはずだった彼に、校長は「ふさわしくない」と、表彰を止めようとする。恩師のカミングアウトに動揺していた生徒たちは、この差別に憤激し、式場で「私もゲイです!」と叫んで立ち上がる。

すると、教師の家族が、町の郵便屋さんが、消防団の人たちが、式場に集まった町の住民たちすべてが、「私はゲイです!」「俺らはゲイだ!」と立ち上がり、そこにいる全員が(校長と教頭以外)ゲイになる…。

ベタだが、ベタなだけに、僕はベタに感動してしまった。とても好きなシーンだ。

  

しかし、感動はしたが、考えかたによっては、異性愛者がアライ(共感し連帯する非当事者)として「ゲイだ」とカミングアウトしてみせるのは、それほど難しくはないのではとも思う。そのあとですぐに、「私はああいう差別が許せなかったから、抗議のつもりで『ゲイだ』と言ったのだ」と撤回できるのだから。その人が義侠心のある人だということを示すだけである。

  

しかし、『イン&アウト』の舞台の町には、主人公の教師以外にも、レズビアン、ゲイ,バイセクシュアルがいたはずだ。その人も、あの式場で「ゲイだ!」と叫んだだろう。だがそれはあくまで異性愛者のアライの(ふりをした)パフォーマンスと看做されるだけで、教師がゲイとして住民に受け入れられたのちも、その人はクローゼットの中で暮らし続けたのかもしれない。

  

そんなことをつらつらと考えてしまうのは、「ゲイだ」と立ち上がるのは、僕にとっては簡単なことに思われないからである。

飛行機の中に、僕を知っている人が誰もいないか、すでにカミングアウトしている友人や同僚だったら、立てるかもしれない。

でも、そうじゃなかったら、例えば隣に座っているのが、僕をゲイだとは知らない、ヘテロセクシストの同僚や上司や家族だったら、はっきり言って、立てないだろう。もし目の前で本当の不正が行われていても、「私もゲイだ」と叫んで立つ勇気は出ないだろう。

「義憤のためにゲイのふりをする異性愛者のアライのふり」をして立つということも可能かもしれない。が、そんな二重のクローゼットのような細工をしてまで、僕の膝が動いてくれるか自信がない。

情けないことだが、そういうことを考えたうえでなければ、僕は「私はゲイだ」と立ち上がれないだろう。

言い訳は恥ずかしいかもしれない。でも、ジョークの中のゲイ氏にとっては、「ゲイは私です!」と叫んでも、さしたる問題もないし、何も変わらなかったはずだ。単に彼の名前が「ゲイ」なのだから。だが立ち上がった他の乗客たちは、自分を賭けたのかもしれないのだ。

  

ジョークの中で立ち上がったゲイの乗客たちは、ぜんぜんそんなつもりはなかったゲイ氏に、勇気をもらったのだろう。とても素敵なケミストリーだ。それがこのジョークのキモなのだと思う。

  

だが、現実には、そんなケミストリーは、そう簡単に起こってくれるだろうか。

起こってくれたとしても、そのとき、僕は立てるだろうか?目の前で不正のようなことが行われていても?

  

考え始めると、とてもジョークではすまされなくなって、考え込んでしまった。

ここのところ、カミングアウトについて、ヘタレたことばかり書いているな…。

2009-04-29

次世代再生産とバイオテクノロジー(Judith Butler)

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ジュディス・バトラーの2001年のインタビュー。

The desire for philosophy - Lola Press

  

主題は多岐に亘るのだけれど、バイオテクノロジーによる次世代再生産についてのやりとり。

  

社会改革の手段としてのバイオテクノロジーについてはどうですか?フェミニストは、バイオテクノロジーで人工的に子どもを作るという可能性に反対しています。しかし、バイオテクノロジーによって自分自身で子どもを持つこと、そうして男性・女性の二元的な思考、古い異性愛システムをいつまでも再生産しないようにすることを求めて戦うフェミニストはいないのでしょうか?

What about biotechnology as a means of social transformation? Feminists are against biotechnology and the possibility of producing children technologically. But shouldn't there be a feminists fight for biotechnology and having children on our own and so trying not to reproduce the binary thinking of male and female, the old heterosexual system on and on?

  

いいえ。私はそうは思いません。私は、あらゆる種類の社会工学と言われるものに反対しています。私たちはどんな種類の人間が作られるべきかということを選択すべきではありません。そして、異性愛を克服するという目的で、バイオテクノロジーを[利用する権利を]求めて戦うということは、あるべきでないと思います。私が考えるのはただ、こういうことです。異性愛者は、いつでも再生産の技術を利用しています。異性愛者のカップルが子どもを欲しいと望んだ場合、かれらは通常ひとつの、またはそれ以外の再生産技術にアクセスします。私が問いたいのはただ1つ、同性愛者のカップルや独身女性はそのような技術に同様にアクセスすることができるのかどうか、ということです。私にとっては、それは権利についての政治的な問題なんです。

No. Not for me. I am against what we call social engineering of all kinds. We shouldn't be selecting what kinds of human beings should be made. And I think we shouldn't fight for biotechnology in order to overcome heterosexuality. My point is only: the heterosexuals make use of reproductive technology all the time. When a heterosexual couple wants to have children they get usually access to reproductive technology in one way or another. The only question I have is whether gay couples or single women are not given the same access to that kind of technology. For me it is a question of politics of access.

  

ふつーのことを言っとるのだが。

科学技術による再生産をどう捉えるか、社会の中に組み込んでゆくかは、さまざまな考えかたがある。

僕はバトラーと違って、テクノロジーによる次世代再生産は、望む人はやればいい、と思う。

だが、それには、関わる人間、生まれる子ども、精子提供者や代理母をトラブルに巻き込まないきちんとした制度が必要だ。

代理母制が、経済格差を利用したグローバル・ビジネスになっていることは、すでに有名だ。

また、特権的にいつでも再生産技術にアクセスできるのは異性愛者だけだといっても、例えば不妊治療が女性に大きな負担を強いているということや、人工授精による代理母出産が、「家の子ども」を作るという圧力のもと、近親の女性をほぼ強制的に巻き込むケースもあるということを考えると、単に「特権」という問題ではない。

次世代再生産・家族形成の多様化が、どんな倫理と制度を作っていけるかという問題である。

  

バトラーが指摘するのは、現在、次世代再生産技術・制度へのアクセスが、異性愛カップル以外の人間、独身女性(または男性)や同性愛者カップル(カップルでなくても、シングルでもいいわけだが)に不可能である、またはハードルが高いという、基本的な不均衡だ。

(バトラー自身は養子縁組で子どもを持っているが、子どもを持とうとしたとき、養子斡旋機関に「レズビアンという養親のカテゴリーを持たない」と拒絶されたという。結局、司法判断を仰いで養子縁組をすることができたが、州によっては難しい、自分は好運だったとインタビューの中で語っている。)

  

ヘテロセクシズム(異性愛主義)、ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)についてのメモ

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以下は目測的な覚え書き。あとから

  • 典拠を調べる。
  • 見落とし・偏向を補う。

  

ヘテロセクシズム(異性愛主義)とヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)

  

encyclopedia of gay, lesbian, bisexual, transgender & queerの用語集から

Heterosexism

ヘテロセクシズムは、「セクシズム(性差別主義)」から展開したもので、異性愛を特権化して、他のセクシュアリティを傷つけ排斥するショービニズム(※極端なナショナリズムや性差別主義。ここでは異性愛の優越に固執する偏向を指すか)を非難して言う言葉である。

Heterosexism, an extension of "sexism," is a pejorative term designating the chauvinism that privileges heterosexuality to the detriment or exclusion of other sexualities.

  

heteronormativity

ヘテロノーマティヴィティは、異性愛と異性愛の規範が普遍的なものであり、少なくとも認めうる条件であるということを前提とする考え方。ヘテロセクシズムと密接にかかわっており、多くの方法で性的少数者に否定的に作用する。異性愛的な要請を満たせない人間を積極的に抑圧し、性的に異なる存在を不可視化する。

Heteronormativity is the assumption that heterosexuality and heterosexual norms are universal or at least the only acceptable conditions. Closely related to heterosexism, heteronormativity negatively affects glbtq people in a host of ways, from actively oppressing those who do not fulfill heterosexual expectations to rendering sexual dissidents invisible.

  

ヘテロセクシズムとヘテロノーマティヴィティは、基本的に同じ社会の権力構造を批判している。

  

ヘテロセクシズムが、異性愛を支配的・中心的セクシュアリティとし、他のセクシュアリティを劣等なものと抑圧する権力関係を強調しているのに対し、

  

ヘテロノーマティヴィティは、社会におけるジェンダー・セクシュアリティの「規範」が及ぼす影響力に着目し、「(規範的)異性愛=普遍」という規範を再生産し続けるために、そこから逸脱するジェンダー・セクシュアリティを周縁化する(または、「(規範的)異性愛=普遍・自然」のドグマを正当化するために、周縁的ジェンダー・セクシュアリティを有徴的存在として作り出す)システムを指摘する。

  

(↑ ※要典拠)

  

ヘテロセクシズム

  

  • ヘテロセクシズム(異性愛主義)は、当たり前だがヘテロセクシュアリティ(異性愛)・ヘテロセクシュアル(異性愛者)とは違う。ヘテロセクシストでないヘテロセクシュアルはいくらでもいる。が、現代社会では、誰もが(異性愛者も非異性愛者も)ヘテロセクシズムの構造の中に巻き込まれている。

  

  • ヘテロセクシズムが想定する「異性愛」とは、「男女が性的に欲求しあい(番になって再生産する)」「規範的異性愛」である。

  

  • 「規範的異性愛」は、「男/女」の性別二元的ジェンダー規範を前提にしている。現社会のジェンダー規範は性差別的であり、ヘテロセクシズムは必然的に女性差別と女性蔑視を伴う。

  

  • 竹村和子は、異性愛主義であるとともに性差別主義である社会の仕組みのことを、「(ヘテロ)セクシズム」と名づけている。ここでは、異性愛/同性愛の二項対立的なカテゴリが、男性/女性という二項対立的なカテゴリと関連づけられて、組織化されている。

  

  • つまり、ヘテロセクシズムにおいて、規範的異性愛(正しいセクシュアリティ)からの逸脱は、「正しいジェンダー」(ジェンダー規範、当然女性差別的であり、特権的地位に置かれる男性にもしばしば抑圧的)からの逸脱として捉えられる。ゲイが「女性的」(またはマッチョな「アニキ」という、いずれにせよ「平均的男性イメージ」から外れた姿)、レズビアンが「男性的」または「(男を受けいれられない)不完全な女」としてステレオタイプ化されるのは、そのためである。

  

(↑ ※要典拠)

  

ヘテロノーマティヴィティ

  

  • 1990年代、クィア理論の主要概念の1つとして生み出される。  
    • 「ヘテロセクシズム」に対する批判が、自ら「異性愛/同性愛」の二項対立に陥り、性別二元論に基づく二元的セクシュアリティを固定してしまったことを批判する。(たぶん。← ※要典拠)

  

  • ヘテロノーマティヴィティは、「異性愛/同性愛」という二元的な分類がなぜ生まれるのかという「規範」のシステムを問う。

  

  • ヘテロノーマティヴな社会は、「異性愛」を「普遍的」で「自然」なものと規範化するために、さまざまな科学的、倫理的言説を動員する。そのために、対置される「不自然」なものとして、「同性愛」やその他の「性的倒錯」が、「異性愛」の外部に作り出される。
    • 例えば、個々の人間のセクシュアリティは実際には多様であり、「異性に惹かれる」「同性に惹かれる」で分けられるものではない。が、ヘテロノーマティヴィティは、「(規範的)異性愛」に「正しさ・自然さ」を与えるために、「異性愛」と「それ以外」を切り分ける。「異性愛」が人間のセクシュアリティの標準と看做され、それ以外のセクシュアリティは不可視化→隠蔽→クローゼット化される。

  

  • ヘテロノーマティヴ社会が標準化する「異性愛規範」とは、「その社会で規範的とされる異性愛」である。その規範に適応できないものは、むろん「異性愛者」だろうと、周縁化され、疎外される。

  

  • 「異性愛規範」の前提にあるのは、もちろん性別二元論に基づく「ジェンダー規範」である。だから「異性愛規範」は、女性差別・女性嫌悪をはらむ。

  

  • バトラーは、人間のジェンダー、「自然(生物学的)」とされるセックスも、実際には規範によって作られるもの、ジェンダーの規範の果てしない引用・反復によってなりたつものと看做す。人間は、ジェンダーの諸規範を参照し、引用・反復し続けることで、はじめて「男」「女」というジェンダー的存在でありうる。ヘテロノーマティヴなジェンダー規範は、セックス/ジェンダー/セクシュアリティの一貫性を要請している。セックス/ジェンダーの不一致(トランスジェンダー)や、ジェンダー/セクシュアリティの不一致(非異性愛者)は、異性愛規範から脱落し周縁化される(そしてまた「同性愛」「トランスジェンダー」という規範的言説に回収される)。

  

  • 規範の果てしない反復によって維持されるヘテロノーマティヴ社会の構造は、単純な権力関係、優劣関係ではない。「自然」という言説で固められ、規範に適応すれば善しとされ「幸せ」と評価され、逸脱すれば何らかの社会的制裁を受けるか、不安や欠落感にさいなまれる。相互監視システムのようなものに近い。

  

(↑ ※大丈夫か?要典拠)

「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子)

| 10:35 | 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「カミングアウト=解放」批判(飯野由里子) - Ry0TAの日記

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』

第1章「<わたし>/<わたしたち>を語ることの政治性」第2節「カミングアウトー<解放>から<抵抗>へ」pp. 40-44.

  

ゲイ解放運動の流れの中で、カミングアウトが「革命」「解放」と肯定的に捉えられてきたことに対する批判を、フーコー、ハルプリン、バトラーの3者を上げて紹介している。

  

カミングアウトすること自体が革命的であり開放的であるという解放主義的な思想は、現在では多くの批判に晒されている。その先駆けとなったのが、ミシェル・フーコーによる批判である。

  

フーコーは『性の歴史』第1巻の中で、近代以降、性に関する言説は抑圧されてきたのではなく、むしろ煽動されてきたのだと主張した。性に関する言説が抑圧されてきた側面にではなく、むしろそれが積極的に生み出されてきた側面に目を向けようとしたフーコーの手法は、カミングアウトに関しても、それまでとは異なる認識枠組みを提供することになった。

  

フーコーによると、近代に起こった「性についての、文字通りの言説の爆発」によって、性について「どのような時」に「どのような状況」のもと「どのような話し手の間で」語られるべきなのかに関する統制が行われるようになった(フーコー1986:25-26)。そして、こうした統制の結果,一方では「異性愛に基づく一夫一妻制」が「語られることのより少ない」「一つの基準として機能」するようになり、他方では、この基準から外れるものはみな「周縁的性現象」として「自分がいかなるものであるかという難しい告白をする番」(ibid:25-26)とされたのである。したがって、フーコーにとって「周縁的性現象」の出現とは、性に関する言説の抑圧が緩んだ徴候などではない。むしろ、それは性に対する「権力の形式」が「禁忌」から「管理」へと移ったことを意味している。そして、この時期に性を管理するために積極的に生み出されたのが、性に関するさまざまな科学的言説(医学的、心理学的、病理学的な言説)だったのである。

  

さらに重要なことは、こうした言説が「周縁的性現象」を「秘密として設定すること(つまり発見されるためにはまず隠れるように強制すること)」(ibid:54)で、それらを発見したという点である。近代において同性愛を含むさまざまな「周縁的性現象」が発見された背景には、実はこうしたトリックが潜んでいる。だとするならば、自らを同性愛として「発見」し、その「発見」について語るという実践も,権力の外側に位置しているのではなく、性を管理するために発明された権力の内側に埋め込まれていることになる。言葉を換えれば、自らの性について語ることは、性を管理するために生み出された権力の一形式なのである。したがって、自らの性について語ることを抑圧や権力関係から自由な解放と安易に結びつけてしまうことは、その語りが生み出された権力関係を不問に付すことになってしまう。フーコーがカミングアウトを解放と結びつけて捉える思想を批判したのはこのためである。

  

フーコー/渡辺守章訳『性の歴史I 知への意志』新潮社, 1986.

isbn:4105067044

  

現在では多くの論者が、カミングアウトに対してこうした立場をとっている。たとえば、ゲイ・スタディーズの理論家であるデイビッド・M・ハルプリンはカミングアウトに「肯定的」で「解放的」な側面があることを認めつつも、カミングアウトしたことによって生じうる新たな「危険」や「制約」について以下のように述べている。

  

クローゼットからのカミングアウトに何か自己肯定的な、実際解放的なものがあるとしても、それは、カム・アウトすれば、従属状態から逃れ、一切の足枷のない自由な状態になれるからではけっしてない。むしろ逆だろう。カム・アウトすることは、また違った種類の危険と制約に自らをさらすことであり、自分で手軽なスクリーンになって、ストレートの人々がいつだってゲイに対して抱いている幻想を引き受けkることである。そしてなにより、自分の身振り、発言、表現、意見のすべてに、ホモセクシュアルのアイデンティティを認めた者、という、とてつもなく大きな社会的意味が加わってくる。(Halperin 1995=1997: 48-49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

他方、ジュディス・バトラーは、カミングアウトした「主体」は「従属をまぬがれることができるだろうか」と、以下のような問いを投げかけている。

  

「カミング・アウト」の言説は明らかにその目的をはたした。だがその危険性はどうだろうか。「アウト」と看做されている人々が、自分が意図してそうなったかどうかにかかわらず、失業とか公的攻撃や暴力の対象となることが最近とみに増えてきているが、私がここで言っているのはそのことではない。「アウト」な「主体」が従属をまぬがれ、最終的に自由になることができるだろうか。つまり、ゲイやレズビアンの主体を、いくつかのやり方で服従させる隷属状態は、いったん「アウトである」ことが主張されるや、抑圧を続けたり、もっとも陰湿なやり方で抑圧するということがありえるだろうか。(Butler 1991=1996: 118.)

  

ジュディス・バトラー/杉浦悦子訳「模倣とジェンダーへの抵抗」『イマーゴ 特集 セクシュアリティ』5月号(1996), pp. 116-135.

  

カミングアウトしたからといって、抑圧から解放されたり自由になれたりするわけではない。むしろ、カミングアウトしたことで、レズビアンやゲイに対する抑圧が、わたしたちが予期しなかったようなかたちで続けられていったり、あるいは逆に増大してしまったりする可能性も残されているというのである。

  

「抵抗」としてのカミングアウト (2009年7月21日追記)

飯野は、70年代ゲイ解放運動で称揚されたという「カミングアウト=解放」という理念が多くの思想家に批判されたことを紹介したのち、カミングアウトは「権力関係に亀裂を入れてゆく」「抵抗」である、という捉え方に移る。

  

 フーコーにとって抵抗とは,解放とは異なり、「権力の関係の戦略的場において」存在し、権力の「排除不可能な相手として書き込まれている」(ibid:124)。そして、抵抗はそのような相手として書き込まれることで、「社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破戒し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り込み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」(ibid:124)のである。つまり、フーコーの枠組みにおいてもなお、抵抗という形で,権力関係に亀裂を入れてゆくことは可能であるということになる。

  

 フーコーによるこうした議論の影響を受けて,現在では多くの論者がカミングアウトを権力からの「解放」ではなく、権力に対する「抵抗」として捉えようとしている。先に紹介したハルプリンも、その一人である。彼はカミングアウトの政治性について以下のように述べている。

  

 カミング・アウトが不自由な状態からの解放だとしても、それはカミング・アウトが、権力の手の内から権力の外への逃げ道となるからではない。むしろカミング・アウトは、これまでとは異なる権力関係を起動させ、私的でかつ政治的な闘争の力学を変化させるのだ。カミング・アウトは、解放という意味ではなく、抵抗という意味での自由の行為である。

  

(Halperin 1995=1997: 49.)

  

デイヴィッド・M. ハルプリン/村山敏勝訳『聖フーコー—ゲイの聖人伝に向けて』太田出版, 1997.

isbn:4872333268

  

 確かにフーコーが主張したように、カミングアウトしたからといって権力の外側に出られるわけではない。しかし、だからといって、カミングアウトの持つ公的・政治的な意味が失われてしまったわけではない。カミングアウトは「これまでとは異なる権力関係を起動させ」、「私的で政治的な闘争の力学を変化させる」という意味において、なおも政治的な行為として捉えられ続けているのである。

  

飯野由里子『レズビアンである<わたしたち>のストーリー』pp. 44-45.

  

「共同行為」としてのカミングアウト(堀江有里)

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堀江有里『「レズビアン」という生き方ーキリスト教の異性愛主義を問う』pp. 41-42.

第1部「「レズビアン」というポジション」第4章「カミングアウト」から

  

つねに、同性愛者のカミングアウトは無化される危険にさらされている。では、カミングアウトが機能する場とは、どのような場であるのだろうか。風間孝は、それを受け取る側との「共同行為」であるとし、つぎのように述べる。

  

一般的には同性愛者が押し入れの外に出る行為をカミングアウトとみなされがちですが、私はそうではないと思います。押し入れから出る事は同性愛者自身がするのですが、出た時にまた押し入れの中に戻されてしまってはカミングアウトにはならない。同性愛者が押し入れの外にあり続ける為には同性愛者の力だけでは不可能だと思います。カミングアウトというのは言う側だけの問題ではなくて受け止める側の問題でもあると思うのです。そういう意味での『共同行為』だと考えています。

  

風間孝「共同行為としてのカミングアウト」『日本基督教団京都教区ニュース』特集号、2001年9月2日発行、「同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティへの差別問題を考える学習会」講演録(京都教区常設委員会主催、1999年1月21日)

  

ふたたびクローゼットに押し戻される力へ抵抗すること。異性愛主義への問いかけ。同性愛者がほかの同性愛者と繋がっていくと同時に、「異性愛」を相対化してゆくことのできる異性愛者と繋がっていくことー「共同行為」としてのカミングアウトの可能性と希望は、そんなところにあるのではないだろうか。

2009-04-26

「家族」についての日本の保守言論

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女性差別撤廃条約「選択議定書」について(1999年)

女性差別撤廃条約の選択議定書を採択ー国際連合広報センター

  

4月21日・自民党・外交部会で行われた討論に関する報道。

はてなブックマークーasahi.com(朝日新聞社):ひどい女性差別ある?ない? 自民部会で激論 - 政治

  

ブックマークコメントの反応にもうかがわれるように、すさまじい内容だったと思わせる報道だが、批准への反対意見として取り上げられている一言、「堕胎、離婚促進法だ」に、なんだかえらく既視感があった。

  

女性差別撤廃条約について行われていた議論については、e-politics@wikiがよくまとめていて、

国際人権条約 > 女子差別撤廃条約ーe-politics

  

リンクされた議員ブログをいくつか見たところ(全部は見ていない)、衆議院議員の戸井田とおる氏の発言らしいが、

女性差別撤廃条約選択議定書ー丸坊主日記

権擁護法の時にも人権侵害の事例も全くと言って良いほどはっきりと人権侵害と言われるような事例は無かったではないですか。男女共同参画基本法が出来てから、成立に合せたかのように十代の堕胎率と離婚率がうなぎ登りに上昇している。これでは離婚堕胎促進法ではないか。更に以前男女共同参画法について議論した時に、これからは「ジェンダー」と言う言葉は使わないはずだったのが、今は「ジェンダー」が溢れている。これはおかしい!日本の伝統文化に国連からとやかく言われる必要は無いと思います!!

  

女性差別撤廃条約についての議論で、どうやったらこんなこじつけが成立するのか分からないような主張だが、こじつけに引っ張ってこられた「堕胎」という言葉はさらに浮いている。

  

で、e-politicsが収録している転載フリーの報告(21日付)で納得した。

この問題に関する自民党内での議論はどうなっているのでしょうか?(2009/04/21)

  

報告をしているのが、「家族の絆を守る会」の岡本明子氏だ。

米国に拠点を置く保守系家族問題組織World Congress of Familiesの日本支部のサイトを運営し、国連NGOの1つとして国連で保守系のロビー活動をしているカトリック系家族問題NGOC-FAM(Catholic Family and Human Rights Institute)が発信するレポート「Friday Fax」(これは毎度宗教系保守のサイトにあっという間に転載される)を日本語訳してきた。

2007年5月に「家族の絆を守る会」が成立しブログが開設されてから、発表の場をそちらに移している(WCF-Japanの更新は2007年7月まで)。

    

アメリカの宗教系家族問題保守のネットワークと、日本の保守系ネットワークのそれへのにリンクついては、

ジョグジャカルタ原則と「家族」

  

C-FAMはカトリック系組織であるためか、国連で議論されているリプロダクティブ・ヘルス&ライツを含む女性の人権の問題や、ジョグジャカルタ原則と性的少数者人権問題などに取り組む国連職員・特別報告者・国連NGOなどのことを、「妊娠中絶(abortion)を促進する職員」「小児性愛や性転換を勧めるNGO」といった表現で非難するのが定番になっている。フライデー・ファックスで連呼される「妊娠中絶(abortion)」を、岡本氏はいつも「堕胎」と訳している。

  

「堕胎」という言葉を選ぶのは、これは単なる推測に過ぎないが、刑法の堕胎罪を意識しているのだろうか。

堕胎罪ーウィキペディア

第二十九章 堕胎の罪ー刑法第二編ー法律条文集ーUltima ratio

同じ法律でも、優生保護法においては「人工妊娠中絶」という言葉が使われる。

母体保護法ー総務省法令データ提供システム

なにを意図しているのか分からないが、刑法の用語である「堕胎」という言葉をわざわざ使うのは、やむを得ない人工妊娠中絶を含む女性のリプロダクティブ・ライツに対する侮蔑であるように僕には思える。

  

21日の外交部会で出た「堕胎離婚促進法」が、岡本氏によるC-FAM通信翻訳の影響のなせるわざか否かというのは、僕の印象に過ぎないし、邪推に留まるのだが。

「家族の絆を守る会」は、今回の女性差別撤廃条約議論についての発言をアップしていないが、条約に反対する自民党の動きに与しているのは、明らかなんだろう。

  

「家族の絆を守る会」のブログに記名はないが、World Congress of Familiesの会議にも参加し、その報告を発信している。

World Congress of Familiesについて、前の日記で「極端に過激なことを言っているわけではない」と評価を書いたが、僕個人は、この組織を認めたくない。

かれらが主張する「家族」の定義というのは、

「家族=言わなくても分かる」「家族は自明、肯定的に捉えられるべきもの」

で、この判断停止ぶりは「家族」をめぐって起こる問題の現実をあまりに見ていない。また当然のように同性婚には強く反対しており、認めているのは異性愛家族のみである。

人権問題に対するWorld Congress of Familiesの立場表明は、「家族の絆を守る会」ブログにマメに翻訳紹介されているが、これもかなり問題があるうえ、どこかで聞いた言葉にそっくりである。

  

断片的な情報だが、「家族」や「女性」をめぐる日本の保守言論は、本人たちが言っているほど「日本の伝統」に則しているわけではなく、アメリカに拠点を置くグローバル保守運動とリンクすることによって作られているかもしれないことを、いちおう、メモ。

2009-04-25

カミングアウトは1人ではできない

| 21:01 | カミングアウトは1人ではできない - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - カミングアウトは1人ではできない - Ry0TAの日記

    

昨日は、僕がゲイだと知っている職場の同僚たち3人・H、N村さん、Tさん(これまで職場の同僚を××、△△と書いてきたが、イニシアルにする)と、一緒に昼飯を食った。

僕が上司にカムアウトしたということを、すぐ知らせた人たちだ。そのことを相談がてらちかぢか飲もうと言っていたが、1人は小さな子どもがいるので、考えてみたらそんな時間は取れない。だから昼飯になった。

  

Hは、前から言っていたとおり、上司と機会を作って話してくれていた。

上司は、

「まさかりょうたがゲイだとは想像もしなかったから、驚いた」

ということを、言っていたという。

  

Hが上司に言ったのは:

・りょうたは話を聞いてくれた上司に感謝していた。(これは僕が頼んでおいたことである)

・自分も約2年前にりょうたがゲイだと聞いた。自分も(ゲイにカムアウトされたのは)初めてだったので驚いたが、結局何も変わらないので、すぐ慣れた。

・それでも同性愛について何も知らなかったので、それなりに調べてみた。この頃はインターネットでいいサイトが簡単に見つかる。

・こういう(あまり干渉のない)職場でも、結婚のことなど問われる機会はあるが、その中でゲイだと黙っているのは大変だと思う。

  

などということだった。

Hはわざわざ持参していたノートPCでサイトを検索して見せ、自分も見たというサイトのURLを上司にメールしてやったという。何のサイトを紹介したのか?というと、すこたんソーシャルサービス。なんと手堅い。

  

完璧なアライ(支援者)ぶりに、ただ感謝する。

  

あとで思ったことだが、同性のHが、僕のカミングアウトについて上司と話をしてくれたことは、良かったんじゃないかと思う。

N村さんやTさんのような女性が話をしていたら、「女性はいいかもしれないが、男の自分は(ゲイは)ダメだ」という疎外感を、上司に与えるかもしれない。でも、男のHと話すことで、「なんだ、仕事仲間がゲイだと知っても、別に気にしていない男がいるんだ」と思うかもしれない。

  

職場での関係はけっきょく限られたものだし、カムアウトして、何がどうというわけでもない。映画通のN村さんとは、クィア映画の感想を話し合ったりするが、他の人とは基本的に「だから?」の世界である。

  

でも、「性的少数者が自分を隠していることに気づかれず、性的少数者がいないことになっている場」と、「言いはしないが性的少数者もそこにいると人が知っている場」の違いは、僕には大きい。

  

TさんとN村さんも、機会があれば上司と話してくれると言う。

別に今すぐわざわざ機会を作ってくれる必要はない、このさき、きっかけがあれば、ということで、とお願いする。

  

りょうた「これは前から思っていたことだけれど。ほんとうに、カミングアウトっていうのは、1人ではできないんだよね」

  

カミングアウトは、あたりまえだがまず、カムアウトされた相手が受け入れなければ成立しない。

そして、カムアウトされた相手が、それを受け入れる(カムアウトした側が望むようなかたちで)ためには、それなりの知識・情報・サポートがなければならない。

カムアウトされた人間は、する人間と同じく、孤立させられることになるのではないかと、僕は思う。人に相談したくても、アウティングするわけにはいかないから、相談できない。カミングアウトは、された側をも、異性愛規範社会に対する忍従を強いる「クローゼット」に巻き込む。

  

だが、直面したカミングアウトを受け止めるのに必要な知識なり情報を、「カムアウトする側」が与えられるかというと、それは簡単じゃないと、僕は思っている。

  

同性愛者「当事者」だからといって、同性愛者が置かれた状況を、実感のない異性愛者に理解できるように説明できるわけではない。同性愛に限らず、社会に無視されたり偏見を押しつけられたりして、学習の機会もろくに与えられていずにきた事柄について、相手に伝わるように言語化するのは、相当な学習と思考訓練を必要とする。

  

それに、カミングアウトの二者関係の中だけで「する側」から「される側」に与えられる情報は、カミングアウトという「場」を、「する側」の「一方的な要求」で満たすことになりかねない。

そこから、カミングアウトを「迷惑」「押しつけ」と考える反発や、気後れも生じてしまうのかもしれない。

  

僕は、カミングアウトのときは、相手とかなり話す。自分がなぜその人にカムアウトしたのか説明するだけじゃなく、相手の気持ちを訊ねる、今は分からなくても、疑問に思ったことは何でも聞いてくれ、という。

しかし、こういうくだくだしい対話の試みは、結局、対等な関係を持っている「横のつながり」の相手だからできたことだ。よかったらこれを読んでくれ、これを見てくれ、ということも、いうことができた。だが、「縦のつながり」の関係にある上司に対して、同じことをするのは難しいことを、今回知った。

  

だから、カミングアウトを支える第三者的な存在が必要だ。相談できる人でも、ごく簡単なお役所的ガイドラインでも、本でも、すぐ参照できるネットのサイトでも、何でもいい。

  

その点,ネットは、たしかに重要な役割を果たしている。「友人/子どもに同性愛者だとカミングアウトされたけれど…」という質問を投げる場が、どこかしらにある。僕もネットの中で、そういう人に何人も出会ってきた。でも、ブラウザの向こうの、実際に状況を分かっているわけじゃない人間に、偏見を持つなと説教されたり、大丈夫だよまあ頑張って、と激励されても、そんなアドバイスが本当に役に立つのか、いまひとつはっきりしない(もちろん、相談できた、気持ちを吐き出せたという心理的な安心感は、あるかもしれないと思うが)。

  

今回の僕のように、実際にカミングアウトに当たって助けてくれる第三者がいるというケースは、どれほどあるだろう。けっこう恵まれた、贅沢なケースかもしれない。だが、仮にもしこれが「贅沢」なのだとしたら、そこまでカミングアウトを支える環境が「貧しい」ことが、かなりの問題じゃないか。

  

カミングアウトをする/されるという状況を強いているのは、社会だ。

だが、実際のカミングアウトは、ちっとも「社会的」ではない。すべてが「個人」の努力と運に委ねられている。「社会」(公的空間)に対しては、不当に「個人」のことを持ち込むこととされ、「迷惑」「自分勝手」と見なされてしまう。これは、ほかのカミングアウトをする必要のある、つまりクローゼットを強いられた人にも、共通していることだ…

  

と、いうことを、そのときすべて言えたわけじゃなく、うまく伝わったか分からないが、Tさんの反応は、僕が言ったことを、汲み取ってくれていたと思う。

Tさんは、高校のとき、授業で同性愛のことを(いちおう、と言っていたが)習ったという。

  

Tさん「でも、『異性ではなく、同性を欲求する人もいます。同性愛者です』って言うだけなんだよね。その人たちはそれを隠して暮らしています、なんてことは教わらなかったし、そのときは、想像もしなかったと思う」

N村さん「同性愛者もいます、って、どこにいるの?だよね。そのクラスにもいただろうに…」

りょうた「その教室にいたレズビアンやゲイの生徒には、その授業は救いになったと思うな。でも、他のノンケの生徒にとっては、ピンと来ないよね。あとになっても、『新宿二丁目』とか、TVとか、自分が関係ないところにいるんだろうって考えていて…身近な誰かが隠してるなんて、思いもしなかったり」

Tさん「同性愛やトランスジェンダーのことを教えるなら、ちゃんとクローゼットのことも教えて欲しかった」

りょうた「今はネットで何でも調べられるといっても、ネットの情報って、玉石混淆だよ。性的少数者関係のサイトやブログも乱立してるといっても、非当事者向けのものは、意外と少ないし…カミングアウトを受けた人がパッと参照できるサイトで、これはというのは、実はないかもしれない」

H「いいサイトがあったって、◯○さん(僕の上司)みたいに、ネットやらない人だっているじゃん」

(※上司は、まったくインターネットができないというわけではないが、何かを調べるために積極的にネットを使うタイプではない。HがわざわざすこたんソーシャルサービスのURLをメールで送ったのは、そのためだ。)

N村さん「本もどれを読めばいいか、いきなりは分からないし。高かったりするし」

  

この職場にLGBTはりょうた以外にもいるだろうに、それを分かってないというのはおかしいね、という話になる。いやLGBTだけの話じゃない、在日の人だって、部落出身の人だって、HIV陽性の人だって。定期的な通院ができなければいけないPWHAの人は、忙しい仕事の中で理由を言わずに休みを取るために、苦労を強いられてしまうと思うのだが。

  

「意外な秘密を思い切って告白する」という感じの昨今のカミングアウトの言葉の使われかたについて、ひとしきり話す。

カミングアウト,カムアウトという言葉は結構使われているが、身近なクローゼットの性的少数者、在日韓国人・朝鮮人、部落出身者、HIV陽性者などのことは、どれほど意識されてるだろう。

  

H「カミングアウトしなくていい人ばかりが、せっせとカミングアウトしてるね」

  

という一言が、なんだか印象に残った。

カミングアウトについて、ノンケの知人とこんなに話したのは、久しぶり、ひょっとして、初めてかも知れない。不思議な開放感だった。

上司も、こういう「場」を共有できる相手になればいいのだけれど。むろん、多くは望まないが。

2009-04-22

メモ(あとで整理)

| 13:08 | メモ(あとで整理) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - メモ(あとで整理) - Ry0TAの日記

  

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200904210001/

三橋順子氏のブログの記事を拝読。

  

同名のMtFトンスジェンダー女性とシスジェンダー女性タレントが「真の○○」を主張して(ネタで)対決したとして、それがなぜ「どちらを男性タレントが抱きたいか」で決められることになるのか。

  

女性タレントが売るものが「ヘテロ男性にとっての性的価値」であることを露骨までに当然視し、当然のように女性タレントをそれに従わせている。

  

女性タレントの女性ジェンダーを弄ぶ娯楽、たとえばタレントたちを容貌や料理の才能で競わせ比べてて笑うという娯楽は、たくさんある。

  

そのなかで、「セックスする気になるか」という最たる愚弄を、MtFトランスジェンダー女性タレントを連れてきてやるというこの企画の、一層のいやらしさはなんだろう。

  

TVやメディアが女性ジェンダーをまとうクィア・タレント(MtFトランスジェンダー、ニューハーフ、オネエ)を歓迎し、レズビアン・バイセクシュアル・FtMトランスジェンダーを無視するという傾向は、女性ジェンダーをまとうクィアの存在が、古風なぐらいの女性ジェンダー規範を開き直り的に肯定することを可能にしていることと、無縁ではない。

クィア・タレントの消費傾向が示しているのは、存続強化に関心が持たれているのは女性ジェンダー規範だということ、「男性ジェンダーとは何か」ということは、触れてはいけない領域だということ。

2009-04-20

ブックマークへのお礼

| 21:32 | ブックマークへのお礼 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - ブックマークへのお礼 - Ry0TAの日記

はてなブックマーク―上司にカムアウトする - Ry0TAの日記 - queeringmeグループ

  

4-18の日記にブックマークをされた方に、感謝します。

「お疲れ」という言葉を下さったid:mike_nさん、id:fuji_hajimeさん、幸運を願ってくださったid:spectre_55さんに、そのほか、コメントを書いてくださった方に、感謝します。

  

カムアウトは「したあと」が問題ですから、自分がカムアウトすること自体には重きを置かない、そう考えるようになっていました(それでいいんだと思っています)。

でも、やっぱり「言う」ことはエネルギーを使う行為だったんだと、慰労の言葉を目にして、今更ながらに思い出しました。

そして、慰労が力を与えてくれるということも。

  

あと、当該の日記を、「労働」問題と捉えてくださったことにも、感謝します。

職場でのカムアウトに対する意見は、さまざまだと思います。

カムアウトは簡単で、大したことはないという人もいる。カムアウトなんかありえない、そんな危ないことはできないという人もいる。

職場でカムアウトして働いている人もいる。

仕事の人間関係の中で、セクシュアリティを明かす必要はまったくない、という人もいる。

でも、どんな意見を持つにせよ、選択をするにせよ、少なくとも言えるのは、カムアウトはまだ完全に「自己責任」の領域だということです。カムアウトして、どんな結果になろうと、なんの保障もない。カムアウトが起こすかもしれない波紋は、すべて個人のパーソナリティと努力でカバーしなければならない。だから、一番安全で確実な方法は、カムアウトしないことになります。

  

この問題が解決されるためには、それこそ上司の子どもの世代のレズビアンやゲイやバイセクシュアルやトランスジェンダーが安心して職場で自分のことを語れるようになるには、どちらの方向に踏み出せばいいか、今の僕には分からないのだけれど、とにかく今は、目の前のこの現実をサバイバルしていかなければならないのだと思います。

カムアウトした上司と話す

| 20:58 | カムアウトした上司と話す - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - カムアウトした上司と話す - Ry0TAの日記

先週末、上司にカムアウトした。

  

週末は、ストレスで転職先を探す最悪の想像と、根拠のない楽観的予測のあいだのどこかで過ごした。

金曜日にカムアウトしたことをかなり後悔した。顔を合わせない週末のあいだ、僕のカムアウトについてどんな考えが上司の頭の中に生じているか、予測がつかない。他の日だったら、翌日すぐフォローができたのに。もう遅い。

  

久しぶりにゲイ専用SNSに行こうかと思ったが、怖くて止めた。職場で上司にカムアウトした、という話題を出したら、励まして、カムアウトが上手く行ったケースやアドバイスを色々出してくれる人もいるかもしれない。だが、「バカが」「無謀」とこき下ろされる確率も、同じだけあるような気がした。

  

僕が上司にカムアウトしたのは、やはり、上司が上司として尊敬できる人だからだと思う。

でも、彼の人柄や上司としての態度が部下の僕にとってどんなに尊敬できても、それは50代の男性が男性同性愛者にどんな印象を抱くのかということまでは保証しない。そこまでは求められないのが、残念なことに、いまの現実だ。

  

上司へのカムアウトを知らせた同僚が、またメールをくれた。休日に。やたらありがたかった。同時に、自分が自分だけでは自分を支えきれないことを知らされた。

  

こうした惨状(としか言いようがない)のあと、上司に会ったら言うべきことを頭の中で整理して、出勤した。

伝えることは:

・カムアウトを聞いてくれた礼を、もういちど言う。

  (感謝を伝えるためもあるが、曖昧にスルーされないためでもある)

・先週言い忘れたことを言う。

  個人的なカムアウトしかしていないので、他の上司・同僚には黙っていて欲しいこと。

  (アウティング防止と、上司を信用してカムアウトしたことを、分かってもらうためだ)

  問いたいことがあったら、どんなことでも訊いて欲しいこと。

  (僕の知らないところに溜め込まれたら、怖い)

  

上司には、「カムアウト」「アウティング」という言葉は、たぶん伝わらない。別に上司が年配の人だからというだけじゃなく、そもそも、そんなに人が知っている言葉ではない(ついでに「性的指向」や「セクシュアリティ」も。「ゲイ」という言葉だって、どんなニュアンスで伝わるか分からない)。

  

始業時間の週はじめのミーティングで、顔を合わせる。

いつもの通り、僕が取りまとめをし、個別の仕事の責任者から報告があり、上司が上の立場から指示を出す。じゃあいいですね、で日常業務につく。

  

僕は上司に電話を入れ、書類やデータを届けるために、上司のオフィスへ行く。

    

その後の上司との話は、たぶん、上手くいったのだと思う。

  

書類の説明と仕事の話をして、どう切り出そうかと思うまえに、上司が言った。

  

上司「ああ、メールをありがとう」

りょうた「あ、ハイ…こちらこそ、ありがとうございました」(頭下げ、にこにこにこ)

  

それからどう話を始めようかと思ったが、また上司のほうから、こんなふうに切り出してくれた。

    

上司「それで、やはり僕も、他の人には黙っているのが、いいんでしょうね」

  

これは、正直、嬉しかった。

  

りょうた「ええ、お願いします。ありがとうございます」(頭下げ)

  

先週僕が強調した話、人の偏見に晒されるのが嫌で黙っているのだという話を、上司が憶えていてくれたことが、ありがたかった(もっとも上司は、「同性愛者は隠れておくのが当然だよ!」というつもりで言ったのかもしれないが。そこのところはわからない)。

  

りょうた「僕は、自分のことについては、何も問題あるとは思っていません。でも、他の人がどんな考えを持っているか、それはまた別、ですから」

上司「まあ、そうですよね…少し、難しい問題だからね」

りょうた「もちろん、皆、いい人ですが…誰もが××や△△(僕がカムアウトした同僚)や○○さん(上司)のようだとは、限らないですから」(上司を勝手に「僕のカムアウトを受けいれた人」にカウントしている。この図々しさは、もちろん、ワザとだ。)

  

りょうた「ほんとうは、誰にでも自由に言えればいいんですけれどね。残念ながら、今の世の中、まだ」

    

上司「まあ、僕にはよく分からないことだけれど。もっと日本も、自由になるといいと思いますね」

  

この言葉を聞いて、どっと、というと大げさかもしれないが、肩の力が抜ける気がした。

伝わっているな、という気がしたのだ。少なくとも、今の段階では、僕にとって十分すぎるリアクションだと思った。

  

りょうた「本当に、そう思います―今は無理でも、○○さんのお子さん(注:大学生と高校生だ)の時代には、ぜひ」

  

少し冗談めかして笑って言ったので、上司は笑っていた。

でも僕にとっては、日常生活の中で滅多に、口に出しては喋れない言葉だ。緊張して自分を抑えていなければ、声が震えるほど高ぶったかもしれない。

  

上司自身のお子さんたちが同性愛者である可能性や、かれらの友人が同性愛者である可能性や、かれらの大人になって、生まれた可愛い孫が同性愛者である―そういう可能性も、頭に浮かんだ。

けれど、いちおう僕を是認して笑ってくれているらしい上司が、そうした考えをも受けいれる人かどうか、僕には分からなかったし、僕も、上司にそこまで求められる立場ではない。

  

また礼をいい、辞去する前に、付け足すように言う。

  

りょうた「あと、僕がゲイだということは、仕事とは全然関係ないことですけど…でも、ほかの異性愛者の人とは違うということで、なにか判断に困るようなことがあったら、なんでもおっしゃってくれませんか」

上司「え?」

りょうた「いえ、ときどき、凄く気を使って、気を回してくれる人がいるので。でも、そういうのは申し訳ないし、こちらも困ってしまうし…。分からないことがあったら、何でも訊いて下さったほうが、僕も助かります。大したことはないかもしれませんが、一応」

上司「(たぶん、分かったという表情)ああ、分かりました。必要があれば、そうするから」

  

分からないことがあったら何でも訊いて欲しい、というのは、カムアウトする相手に必ず言うのだが、上司の反応がピンとこない感じだったので、内心慌てた。でも、何が分からないのかも分からない、という反応は、珍しくないのだ。

しかし、「ゲイ」「同性愛者」にはなにか特別な対応をしなきゃならないのかとか、どうすればいいのかといった気疲れや苛立ちが、あとからやってくる人もいる。だからカムアウトするときは、疑問に思ったことは何でも言ってくれ、と念を押すのだけれど、上司相手には、少しやりにくかった。余計なこと、失敗だったかもしれない。

  

  

ほうほうのていで自分のオフィスに戻り、カムアウトしている同僚たちにメールする。

僕が知らせた感触に、皆安心してくれる。

ようやく皆に心配をかけた申し訳なさを感じる、自分の身勝手さが情けない。

△△は、やはり上司と話をしてみると言ってくれた。機会はあるからと。

「○○さんが真面目に話を聞いてくれたと、りょうたが感謝していた」って言っておいてくれる?と頼む。

(やはり、上司が僕のカムアウトを「真面目に受け止めた」ってことにしてしまおうって腹なのだが。上司の穏やかな反応に感謝しているくせに、汚い奴に見えるかもしれない。しかし正直な話、こちらも必死である)。

できたら今度皆で飲もう、と約束する。

  

  

とりあえず、今日のところは、言うべきことは言えた。

でも、これで「カムアウトが上手くいった」と浮かれられるわけでもない。

僕が言いたいことを言った、それだけに過ぎない。

上司がどう受け止めるか、それが僕の職環境に影響をもつのかどうか、まだこれからのこと。

今の社会で、性的少数者のカムアウトはまだ「自己責任」が現実だから。

この現実を、乗り切っていくしかない。

とにかく、明日からもやっていこう。

2009-04-18

上司にカムアウトする

| 13:05 | 上司にカムアウトする - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 上司にカムアウトする - Ry0TAの日記

  

一夜明けたが、まだ落ち着かない気分だ。

きのう、直属の上司(男性である)にカムアウトした。

ひとつ個人的な懸念事項を乗り越えたことになる。

この職場に来て、上司とのつきあいは(形を変えながら)もう4年になる。

僕の社会的経済的地位に影響を持つ人と、

「あくまで個人的なこと」として、完全クローゼットでつきあっていくか?

ゲイであることを知ってもらったうえで、仕事していくか?

結局僕は、後者を選んだわけだ。

  

思い返してみると、かなり「セオリー通り」に運んだと思う。

昼食に同行して、コーヒーも飲もう、と喫茶室に行った。先月の出張の話を聞かれたり、「仕事以外のことも話すくつろぎモード」ではあった(と思う)。

そのときに、上司が訊いてきた。

「そういえば、りょうた君は、独身でしたっけ」(注:僕の上司は、とても穏やかな、部下にも丁寧語を使う人である)

「ええ、そうです」

  

僕は普段こういうとき、

「○○さんは、何歳のとき結婚されたんですか?」

と訊き返して、話を相手の「自分語り」に持っていかせる。

でもこのときは、それをしなかった。

(上司の家族やライフヒストリーのことは、これまでのつきあいでもうあるていど知っていたからだが)

  

「まあ、まだ若いからね」

「あっというまですけれどね」(なんでこんなこと言ったんだろう?)

「つきあっている人なんかは、いるんですか?」

「ええ、まあ、それはいますけど」(いかにも照れ笑い風)

「なにしてる人?」

「公務員です。社会人学生もやっています」

「そうなの、大変だね」

「マジメ人間なので…」

「…交際して、長いんですか?」

「知り合って4年、つき合って3年ぐらいになります」

  

こういう会話に、「慣れた」と思うときと、「慣れない」と思うときがある。

ある「人」について、正直なことを話しているのだが、僕はそれが「男」であることを曖昧にぼやかしていて、相手には「女」だと思われている会話。いやあもう慣れたよ、と思うときと、居心地が悪い、と嫌な思いを噛み締めるときと。

ゲイにとっては、いろんなパターンがある。

好きな人について語らせられるとき、交際相手について語らせられるとき、タイプについて語らせられるとき、あてのない結婚の意志について語らせられるとき…

「性の話はプライベートに留めておけ」と同性愛嫌悪の方々はおっしゃるが、「社会生活」の、「潤滑油」のつもりで無造作に取り出される「性の話題」が、どれほど多いことか。

(むろん、こうした話題にストレスを感じている交際相手のいない・結婚の意志のない異性愛者も沢山いるのだと思うが、クローゼットの同性愛者の場合、「交際するとしたら、相手は同性なのだ」「結婚できないのだ、同性だから」という言葉を隠す必要がある。)

  

「そう……」

と言って、上司は黙った。

あとに「結婚しないの?」「『彼女』は、ご家族と同居?」という質問も続かなかった。

  

確たる根拠はなかったのだが、僕はこのとき、「あ、知ってるんじゃないかな」と思った。

僕がカムアウトしている同僚は、職場の中に4人いる。間接的に、なんとなく知っているという人間も、いると思う。上司が知るルートは、実はそれなりに、他にもある。これまでも、上司が「知っているんじゃないかな」と思うことは、なくもなかった。

  

なんというか、言い訳がましいが、こういうのは「偶然」の領域のことだ。このとき僕は、「そういうモード」になったんだと思う。「言おう」、という。

  

りょうた「つき合って長いですけど、結婚はできないんですね…すみません、○○さん(上司)には言っていなかったですが、僕はゲイなんです」

(ここから僕は、ある「体勢」に入る)

上司「えっ」

りょうた(にこにこにこ)

上司(とりあえず、返答なし)

りょうた(すかさず)「ごめんなさい(頭下げ)、驚きましたか?」

上司「うん、まあ…驚いたというか…」

りょうた「さっき言ったつき合っている相手も、だから、男です」

  

(しまった、「ゲイです」だけでは特にピンとこなくても、男が「『男』とつきあっています」というのには、ノンケ男は引く恐れがある。)

  

りょうた「もしかして、僕がゲイだという話、誰にも聞いたことありませんか?」

上司「聞いたというか…(うーん、どっちなんだ)ここで知っている人は、いるの?」

りょうた「ええ、何人かには言っています。××と、△△と、◯×さんと、▽×さんと…」(みんなに感謝!無断で援軍に引っ張り出してすまん!)

上司「そうなの。××とか、なにも言っていなかったねー」

りょうた「よほどの人でないかぎりと言わないでくれと、僕から頼んでいますから…どこにどんな偏見を持っている人がいるか、分からないでしょう」(◯◯さんは、当然そんな人じゃないですよね)

上司「ああ、それは、そうかもしれないね…」

りょうた「そういう偏見のせいで、最悪の場合、僕の仕事や生活が奪われることだって、あるかもしれませんから。よほど信用のできる相手だけ、選んで言っています」(上司もそうなんですよとアピールしているつもり)

上司「うーん…大変だね(伝わってるんだろうか)」

りょうた「その点、××たちは、本当に信用できましたね。僕がゲイだと聞いたあとも、全然態度も変わらないし。なにか、同性愛をバカにして笑うような話がされているとき、さり気なくそれを止めてくれたり。そういう態度は、ホントに嬉しいですねー」

上司「××は、このあいだの出張も、一緒だったね」

りょうた「異性愛者だけど、ちゃんと一緒の部屋に泊まってくれますもんね。おかしな偏見は持たずに。本当にいい奴です」(××もゲイだと思われてたら困るから、さり気なく注意しておく。ついでに、「ゲイの近くでは襲われそうで怖い」という偏見を僕が嫌っていることを主張。)

上司「うーん、そうかあ」

りょうた「○○さんは、これまでゲイの部下って、いたことありますか?」(定石の質問。若い人相手だったら、「ゲイの友人いないの?(え?いないの?それってカムアウトされてないだけだと思わないの?)」というニュアンスで訊くところだが、年配の上司にはそれは避ける。)

上司「うーん、ないね。もちろんTVで見たりはするけれど…ああいうのは、違うんだろうね」

りょうた「芸能人ですからね。僕らのようなサラリーマンは、ああいうふうにはなれないですよ(笑)…ああいうタレントも、いいけれど、TVの弊害ってあるなあと思ってます。身近な人間の中に同性愛者がいるって、逆に想像しにくくなりますから」(つまり、そこらのサラリーマンの中に、同性愛者がいるんですけど、上司は分かっていましたか?)

上司「そうだね、そうかもね」

りょうた「もちろん、言われたほうも、驚くとは、思います」

上司「まあ、それはそうだよね」

りょうた「ゲイについては、おかしな偏見ばかり流されているし。身近にゲイがいるとか、想像もしない人が多いですから…迷惑なんですよね…◯○さんも、驚いていなければいいんですけど(にこにこ)」

上司「そうだね(苦笑のような笑)、まあ、君のことは、よく知っているからね」

りょうた「そういう反応が、一番助かります(にこにこ頭下げ)」(と、僕がゲイだからって態度を豹変されたら困るとアピール)

  

しばらく、コーヒーを飲む。

  

りょうた「…やはり、困るのは、口に出して言わないと、ほぼ絶対に分かってもらえないことですね、こういうことは。だから大変、というか…」(カムアウトしなければ異性愛者と決めつけられ、カムアウトすると困惑されるのは、こっちが困るんです)

上司「うーん、そうねえ」

  

しばらく、コーヒーを飲む。

上司は煙草を吸っている。

  

上司「けっこう、大変だったんだろうね」

りょうた「それは、嫌なことは多いですが。僕は、友人に恵まれてきましたから」

  

(これはカムアウト戦術でもなんでもない、本当だ)

  

それはよかったね、と、上司は言った。すみません自分のことで、と僕はまた謝る。緊張で頭がガンガンしていた。そろそろ限界だ。

少し仕事の話をして上司と別れ、火照ってガンガンする頭を抱えて、僕は自分のオフィスに飛んで帰り、まずカムアウトしている同僚に携帯メールを送った。上司にカムアウトした、と告げ、なぜそうしたのか、グダグダした言い訳はあまりせず、名前を出したことを謝り、率直に頼んだ。このあとどう転ぶか分からないが、助けて欲しい。

それから、なるべく頭を落ち着けて、上司にメールを書いた。話を聞いてくれて,感謝します。

(上司はぜんぜんメールを書かない人なので、返事は来ない)

  

2人の同僚からは速攻で、2人からは少しあとから、返事が来た。2人はいつも実践行動派だ。自分にできそうなことがあればやる。来週様子を見て○○さん(上司)と話してもいい。

  

仕事をしながら、妄想的に最悪の想像にも頭は飛ぶ。それなりの勝算はあってのことだと、自分を安心させようとしてみる。僕が引っ張ってきている仕事の関係で、少なくともあと2年は(誰が飛ばしたかろうが)クビが飛ぶことはない。なにがあっても、そのあいだに、なんとかしよう。これからカムアウトが始まる。この緊張と、憂鬱。夜はなかなか眠れなかった。

  

一夜明けて、なんとか頭痛は収まったが、カムアウトの緊張と、苦い味が宿酔いのように去らない。相変わらずカムアウトは主観的にはしんどい。これは確かに人を異性愛規範社会との格闘に巻き込む行為なのだから。

上司とはまた週明けに顔を合わせる。用事は作れるので、会いに行こう。

自分でこれを選んだのだから、腹をくくるしかない。

nodadanodada2009/04/18 14:05お疲れ様です。本当、しんどいですけれど、夜は明けたので、今日もおはようございますです。(もうお昼過ぎだけど)

Ry0TARy0TA2009/04/18 20:57>のだださん、どうもです。おはようございますです。(もう夜か)
>お疲れ様です。
ありがとうございますです…。半日経って見直すと、すごくパニクってナーバスになっとるなあと思いますが(笑)。
僕は社会人になって以来、「縦の関係」の中でカムアウトしたことが、なかったんですね。カムアウトへの反応って、受容・拒否の2種類なんかじゃなくさまざまだし(これは予測できんというのも含めて>笑)、あとから関係の中でじわじわくるので、どうなるかな、明日はどっちだという気持ちです。でも、がんばります。

「カムアウトは迷惑だ,わがままだ」という意見に、僕は全力で反対するんですが、実際に自分がカムアウトするときどうかというと、「迷惑をかけた」「巻き込んだ」と落ち込みます。直後は、だいたいそうですね。これは、僕自身がカムアウトに否定的な規範を内面化しているからだろうし、カムアウトされる相手も、性的少数者をネガティヴに見る異性愛規範に対抗するための手がかりを持っていない、徒手空拳で応じなきゃならないんだと、痛感させられるからだと思います(そうでない人も、もちろんいますが)。

人間関係のことなので、努力が必要なのは当然だけれど、それでも当人(する側,される側)の努力や運に任せられすぎだよなあと思います、カムアウト。企業や法人にも「社員に対するガイドライン:性的少数者編」とか、できないかしら、ホント。

2009-04-15

「ガチレズ」?「ガチビアン」?「ガチゲイ」?「ガチホモ」?

| 18:19 | 「ガチレズ」?「ガチビアン」?「ガチゲイ」?「ガチホモ」? - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「ガチレズ」?「ガチビアン」?「ガチゲイ」?「ガチホモ」? - Ry0TAの日記

みやきちさんの日記を拝読する。

わたくしがガチな人だと名乗るわけ-みやきち日記

引用されている、のだださんのはてなハイクも拝読する。

id:nodada - はてなハイク

  

まず、全然本筋と関係のないところで見当違いに驚いているのかもしれないが、

  

「ガチレズ」「ガチゲイ」という<自称>があったのか?

  

と、思ってしまった。

  

ただ僕が知らなかっただけかもしれない。僕が個人的にオンでもオフでも「ガチ」というスラングをあまり使わないということもある(それは僕がおっさんだからなのか、たまたまそうなっただけか、分からないのだが)。でも、これまでの狭い経験の中で、そういうゲイスラングに出くわした記憶がない。

「ガチゲイ」、むしろ「ガチホモ」が主流だと思うが、これは非ゲイが、ネタ的にゲイを指して言う言葉だと感じていた。そういう使い方なら、もう、ネットでは、浴びるほど見ている。

個人的には、「リアルゲイ」と並んで、好きになれない言葉だ。

  

Google検索してみた。

    

ガチレズ-Google検索 約 34,200 件(2009/4/15)

ガチビアン-Google検索 約 193 件

ガチゲイ-Google検索 約 1,480 件

ガチホモ-Google検索 約 291,000 件

  

ざっと見た印象でしかないが、いちばん件数の少ない「ガチビアン」が、自称的な使われ方をしているケースが目につく。

「ガチレズ」「ガチゲイ」「ガチホモ」は、圧倒的にネタ(特にオタク、2ch、ニコニコ動画系の)が多いんじゃなかろうか?

(もちろん、それをレズビアン、ゲイが書いているということも、多々あると思う。僕はニコニコ動画を見たことがないのだけれど、「ガチレズ」「ガチホモ」と名のついた動画説明をいくつか見たところ、当事者が作ってアップしているものもあるようだ。)

  

そのほか、自分を「ガチホモ」と呼んでいるゲイのブロガーや掲示板への書き込みも、むろん散見する。

  

(ここらへん、のだださんが、どんな文脈で「ガチ」「ガチレズ」「ガチゲイ」という言葉が使われているイメージを持っているのか分からないので、訊いてみたい気がするが)

 

  

  

もし「ガチ~」が自己同一化の言葉なんだとしたら、その意味するところは、どちらを向いて発せられるかによって決まってくるような気がする。

レズビアンやゲイが「自分をガチ」と言うとき、どこを向いて、なにを意図しているのか。

  

考えは人それぞれ違うだろうけれど、いちレズビアンの立場として、なぜ自分を「ガチ」と呼ぶのか、というみやきちさんの説明は、とても分かりやすかった。

女性であるレズビアンのアイデンティティにかかる社会的圧力は、男であるゲイとは異なる力学があるのではないかと、漠然とながら感じる。

それは、規範的な、つまり男性と恋愛しセックスし子どもを生む異性愛女性にならない女性を、「未成熟」「男を恐れている」など、「未完成の女性」と看做す圧力だ。

レズビアンに対して、「男を経験して、本当に男が良くないのか試してからにしろ」と本気で思っているらしい男は、僕も見たことがある。野卑な冗談のつもりでも、どこかから電波を受信しているのでもない。大真面目にそういうことを言っているらしいのだ。

「同性愛を治療する」という本気の発想は、現在では、さすがに下火になったかもしれない(なくなったわけではない)。だが、「治療」とは異なる「矯正」の圧力が、女性性的少数者には常にかかっている。

  

いっぽう、ゲイの状況は、少し違うかもしれない、という気がする。

たしかに、異性に関心を持たず同性に関心を持つことの「理由」「原因」をうるさく問われる点では、レズビアンもゲイも同じだ。だが、ゲイの場合、真剣に僕らを異性愛ライフコースに引き戻したい理由がある場合(認めたくない家族とか、ゲイに惚れてしまった女性とか)でないかぎり、レズビアンのように関係のない人間からまで、しのごの、しのごの言われることは、あまりないんじゃないか(あるだろうか)。

  

いやむしろ、ゲイだと名乗った時点で、「フツーの男」の間から「一発退場」である。

  

「ガチホモ」という言葉には、「フツーの男」から問答無用で追い出されて、どんなにネタ化しても笑っても構わない珍獣化したニュアンスを、僕は感じる。

  

ゲイが「ガチホモ」なり「ガチゲイ」と自分を指して言うとき、そのモチベーションはなんだろう。それは一人一人の人に聞いてみないと分からないことだけれど、浴びるほど発せられた非ゲイからの他称を吸収してそうなっているんじゃないか。少なくとも、逆ではないのではないか。

    

しかし、あやふやな推測である。一面的な見かただとも思う。最近SNSも見ていないし、個人的交友関係も限られてるので、ほかのゲイ男子がいまどきどんな語彙を使っているか、さっぱり分からないのだ。

  

「リアルゲイ」という言葉に僕が感じる違和感・不快感については、いつかブログで書けないかと思っていた。

なぜ「ゲイ」ではなく「リアルゲイ」と呼ばれなければならないかということ。

うまくいえないが、「リアル(現実)」という言葉をわざわざ冠することで、レズビアンに対するようにそのアイデンティティの足元を絶えず切り崩し、規範(異性愛)のほうへ引き寄せようというのではなく、ゲイという存在をここ(現実)ではない外部へ、外部へと押しやろうとする力学を、この言葉には感じている。

(うまく言葉にできないので、思い込みかもしれないのだが。犬童一心の映画『ジョゼと虎と魚たち』に、主人公・恒夫の弟が、兄の恋人で足に障碍のあるジョゼに会い、こっそりと「初めて見たよ、リアル障碍者」という場面がある。他者を指して「リアル〜」と呼ばれるのを聞くとき、あの言葉のおぞましいような軽薄さ、残酷さを思い出す。)

  

「ガチホモ」「ガチゲイ」という言葉については、もはや分からない。2chに「ガチホモ板」というのが出来ていて、呆れた。ネット上で、「ガチホモ」をネタとしていじり倒す遊びは、ここ数年、異様に進化したんじゃなかろうか。

  

「ガチゲイ」「ガチホモ」…こういう言葉をどう思っているか、他の人にも訊いてみたい気がする。

    

でももちろん、ゲイ男子ズが自分から「自分はガチホモだ」「ガチゲイだ」と名乗っていって、お互いそう呼び合ったり、ノンケとコミュニケートするようになるというのは、それは面白いことじゃないかなと思う。

(「リアルゲイ」という言葉も、"外向き"の自称として、いまではけっこう普通に使われている。)

「ガチホモ」という言葉が好きではない、というのは、あくまで僕個人の感覚に過ぎない。というか、自分で「ガチホモ」「ガチゲイ」と名乗っている人が、このエントリを見て不愉快に感じたら、すごく申し訳ない。

  

と、完全に元エントリと関係なさそうなところに走ってしまった。

2009-04-13

痛みを訴えること、差別の不当性を訴えること

| 19:32 | 痛みを訴えること、差別の不当性を訴えること - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 痛みを訴えること、差別の不当性を訴えること - Ry0TAの日記

Yu-uさんの『群青』Blog版を拝読。

日本基督教団の「同性愛者差別事件」を戦ってこられたときのことを振り返って、こう語っておられる。

  

 あの議場配布文書で示された「痛みの声」とは、ターゲットとなった“セクシュアル・マイノリティ”の声、が意識されていたのだと思う。そもそも、「当事者性」について議論できなかったのは、その出発点にあるのではないか。

  

 「痛み」とは何か? それは誰が感じ取り、そして誰が表現していく権利をもっているのか?…「痛みの声」という言葉が波及していくなかで、どこか“わかりやすい説明”が求められ、それに応答していこうとする身振りがあったのではないか。そして、そこに大きな落とし穴があったのではないか。

  

 「痛み」とは、マジック・タームなのだと思う。「痛み」という表現がなされ、そしてそう表現された途端に、思考停止を生み出した側面もあったのではないか。…ある意味、有効だった手段も、諸刃の刃だったことを思う。

  

ゲイの聖職志願者の差別を発端として起きた「同性愛者差別事件」に抗議の声を上げたのは、当の「当事者」(頭痛が痛い)である男性同性愛者ではなく、教団の性差別と戦ってきた女性たちだったこと、差別に抗う行動の「当事者性」とは、決して差別を受けている「当事者」のみにあるのではないことを、Yu-uさんは著書のなかで指摘していた。『「レズビアン」という生き方-キリスト教の異性愛主義を問う』のなかで、もっとも重要な指摘のひとつだろう。

  

しかしいま考えておられる「当事者性」は、それとは異なるもののようだ…ここでいう「当事者」とは、「差別に抗議する"当事者"」ではなく、「痛みを感じる"当事者"」だろうか。

  

  

…関連するかどうか分からないが、「ゲイ」というある「当事者」である僕は、『週間金曜日』「伝説のオカマ」事件をめぐって書かれた文章の1つを思い出す。

グラウチ風子さんの「存在しない「差別」に対する、存在しえない「抗議」」。

ポット出版のサイトから、いくつか引用する。

グラウチ風子/『週刊金曜日』「伝説のオカマ」は差別かー不定期刊スタジオ・ポット

  

「オカマ」という言葉をタイトルに使用したことによって、セクシャルマイノリティである伊藤さん、あるいは「すこたん企画」の方々は傷つきました。しかし、「ある」マイノリティの人が傷ついたからといって、それがマイノリティ全般の人権を侵害しているかのように振舞うことは、カテゴリーの誤謬であるとしか思えないのです。マイノリティの人が傷つく、ということイコール、人権が侵されたからとは限らないのです。

  

「マイノリティ」の人に傷つかれると多くの「マジョリティ」は弱いものです。それが「人権擁護」などという錦の御旗を掲げていらっしゃるメディアの方々でしたら、なおさらでしょう。私は自分のことを善人だとも、正義の味方だとも、ちっとも思っておりませんから、そこから抜け出すことができましたけど。けれど、これだけは声を大にして言いたい。どうか、ゆめゆめお気をつけて。ある「マイノリティ」が傷ついたことは事実でも、それが人権に関することなのか、その個人のトラウマに関することなのか、それを見極めようとする勇気を持たなければならない、と。

  

であなたは「足を踏まれたら、痛いと言っていい」(正確な文章ではないかもしれません)とかいておられたような気がします。これについては異存はありません。また「泣きながら抗議してもいい」とも書いておられたような気がします。これもOKです。ですから週間金曜日の記事のタイトルに使われた「オカマ」という言葉が、あなたの引き金をひき、それによって傷ついた感情を金曜日に訴えたことについては、それなりに理解できることです。ですが、何故、それを同性愛者の一団体である「すこたん企画」の名のもとに行ったのか。まるでそれが同性愛者全般に関わる差別であるかのように振舞ったのか。百歩譲って、ご自身、その混乱に気づいていらっしゃらなかったのだとしましょう。そして…。

  

ここからは「週間金曜日」批判になります。なぜなら、彼らはその混乱を見抜けなかったからです。ある意味で辛さんの対応が一番素直なものだったのでしょう。傷ついたという感情に共感することはたやすいですから。誰しも傷は持っているものです。その部分を直撃され、ご自身の傷とともに揺れることは何ら非難されるべきものではありません。しかし共感度の高い個人としてはそれでよくても、編集委員というプロとしては???。

  

「差別」などなかったとしか私には思えません。そうである以上、「すこたん企画」さんの「抗議」が「抗議」として成り立つとも思えません。あれは「悲鳴」です。「三杯目」という言葉を聞いたときに義母が発した悲鳴を私が思い出したのはきっとそのせいでしょう。「悲鳴」は挙げていいのです。というか、挙げていいだの何だという前に、ほとばしるのが「悲鳴」というものの本質です。

(略)

傷ついていい、泣いてもいい。でもそれと差別と戦うのは同じでしょうか。というか、それが有効な戦略でしょうか。

  

この事件で、「すこたん企画」(伊藤悟さん)は随分厳しく批判された(仕方ないけど)。同性愛についてはじめに多くのことを「すこたん企画」から学んだ僕には、正直少し辛かった。

それと、「足を踏まれたら、痛いと言っていい」という名言は、伊藤さんのものだったんだなと思ったり。

けれど、この事件を通して、「痛みは(それがどんなに痛かろうと)それだけでは告発にはなりえない」のだと、僕は学ばざるを得なかった。

むろん、「伝説のオカマ」事件については、「すこたん企画」の訴えがはじめから妥当性を欠いていた(訴えも、訴えるやりかたも)という事情がある(日本基督教団の明らかな同性愛者差別への抗議とは、状況が大きく異なる)。

だが、それが「差別」となる文脈では使われていなくとも、「オカマ」という言葉が引き起こす痛み、または痛みへの恐れは無ではない。その悲鳴は、「オカマ」という言葉をトラウマ化するジェンダー規範の抑圧に対して迸っているのだ。

異性愛規範社会の中でそれを外れた人間に向けられる有形無形の差別や、差別的意識・表現の再生産がもたらす痛み、そしてその痛みの存在がまったく見えないらしい人への恐怖、怒り、それに耐えられるほど、僕は強くはない。

だが、痛みに傷つき泣くことは、グラウチさんが言うように、その傷をもたらすものの不当性を訴えることと、大きなひらきがある。

「差別」の構造を捉えて明るい場所に引き出す、論拠のある言葉で具象化する、それができないかぎり、訴えることはできない。

そのために、痛みは堪える。見当違いの批判や訴えに変換するぐらいなら、怒りも堪える。自分自身も検証する。そして、言葉を探さねばならない。これまでにそうした力の構造を暴いてきた多くの言葉の助けをかりながら。

僕の痛みなど、そもそも、誰にも問題ではないのだ。

だが、その痛みを引き起こす異性愛規範の権力構造は、誰にとっても問題だ。誰しも(その構造の中で、被差別者にもなり差別者にもなる僕自身を含めて、)「当事者」でないとは言わせない。

  

  

だから、差別や差別表現の問題について、「○○(マイノリティ)の人たちが傷つかないように、不愉快にならないように、気をつけないと…」なんてことしか言わない「善意」の人たちのことも、僕はあまり信用していない。


  

2009-04-12

散歩

| 22:10 | 散歩 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 散歩 - Ry0TAの日記

  

今日はベラボウに天気が良かった。

こうも天気がいいと、家に籠っているのがすごくバチあたりなことをやっている気分になってきて、落ち着かない。

仕事は終わらないが、座っていても煮詰まるだけだし、少し歩こう。そんな感じで外に出る。

特に目的もなく、ただ歩く。古本屋をのぞいたり、普段は行かない商店街に足を伸ばしたり。

外を歩いているという、そのことがただ楽しい。皮膚と解け合いそうなほど大気と風が心地よい。

残りの桜を追いながら、なるべく普段歩かない道を選んで、ゆきあたりばったり、ただ少しでも、外へ,外へ。

このあたりは滅多に来ない。知っている人にもたぶん会わない。

手をつなごう。

少しの間だが、手の中の指を感じながら歩く。

まぶしいほどに明るい。

100%の外気が、僕の全身を包んでいる。

そのことが僕には、とても嬉しい。



英国国教会の同性愛者の聖職者

| 21:36 | 英国国教会の同性愛者の聖職者 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 英国国教会の同性愛者の聖職者 - Ry0TAの日記

  

女性司祭をようやく承認したのが1994年という英国国教会は、米聖公会と比べるとかなり改革が遅い。

  

英国国教会のLGBT団体、Changing Attitudeは、1995年に結成。

  

英国国教会総会は、2002年、独身であることを条件に、同性愛者の聖職者を認めた。

Decline, ordination of women, homosexuality - Religion & Ethics: Chiristianity - BBC

  

しかし、カムアウトした同性愛者の高位聖職への按手は可能かどうかはあやしい。

2003年、オープンリー・ゲイのJeffrey John師がレディング主教に推薦されたが、反対にあい辞退している。

  

そしてまた、celibacyを条件とする同性愛者聖職者按手は、現実には同性愛者聖職者のセクシュアリティの存在を認めず、黙殺の領域に追いやるという結果を招くのではないか。

そのひとつが、ゲイの聖職者のHIV感染だ。

2006年、はじめて英国国教会の一教区で、HIV陽性であることを明らかにしたゲイの司祭が按手された。

Church of England appoints first HIV-positive, gay priest - 13-Sep-2006 - News Medical Net

Bishop appoints priest with HIV - September 10, 2006 - Times Online

この司祭の按手は別に大きな問題ともならず、所轄の信徒団にも受け入れられているそうだ。

Timesによると、過去15年に、20-30人の聖職者がエイズ合併症で亡くなっている(異性間感染・同性間感染の比率は不明だが)。

英国版Gene RobinsonになったJeffrey John師は、ゲイが信仰ある永続的なパートナーシップを結んで暮らすべきだという持論を語る論文を書いている。

「同性愛者は認めるが同性愛行為は認めない」という矛盾した妥協策は、結局のところ、同性愛者の生きたセクシュアリティから目を背けているだけであると感じさせる。

  

2005年、英国国教会は、レズビアン・ゲイの聖職者がパートナーとシビル・ユニオンを結び、英国の法律が定める権利を享受しうることを認めた。

Civil partnerships and the clergy - 29 May 2005 - Thinking Anglicans

これは、2003年のThe Employment Equality (Sexual Orientation) Regulations 2003に対応した処置である。

ただし、性行為は行わないことを教区の主教に約束することが条件。

Jeffrey John師も、2006年に同じく聖職者のパートナーとシビル・ユニオンを結んでいる。

  

Archbishop of Canterbury's meeting with LGBT clergy - November 30, 2007 - PinkNews.co.uk

2007年11月、カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師が、Changing AttitudeLGBT聖職者とそのパートナーたちと会見した。

Changing Attitudeの会長 Colin Coward師は、英国国教会には1000人以上のLGBT聖職者がいると語っている。

  

  

ルパート・エヴェレット「ゲイが子どもを持つのは利己的で虚栄だ」

| 13:24 | ルパート・エヴェレット「ゲイが子どもを持つのは利己的で虚栄だ」 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - ルパート・エヴェレット「ゲイが子どもを持つのは利己的で虚栄だ」 - Ry0TAの日記

  

Rupert Everett: 'Gay men who have children are egocentric and vain'-Pinknews.co.uk

Pinknews.co.ukの4月8日付記事。

うはは、エヴェレット様。

  

俳優ルパート・エベレットが、子どもの父親になり結婚するゲイを、「利己主義的で、虚栄心が強い」と呼んで攻撃し始めている。

Actor Rupert Everett has launched an attack on gay men who father children and get married, calling them "egocentric and vain".

  

Daily Beast websiteとの談話で、このオープンリー・ゲイのスターは、ゲイ・カップルの代理母制度利用は「まったくゾッとする」ものであり、そうしたゲイ・ムーヴメントをして「中産階級的な古くさいオカマだらけだ」と表現した。

Speaking to the Daily Beast website, the openly gay star said that surrogacy for gay couples is "absolutely horrendous" and described the gay movement as "full of middleclass old queens".

  

彼は言う、「僕は代理母制なんてものはクズだと思う。本当にゾッとする。利己主義的で、うぬぼれだと思う」。

He said: "I think this surrogacy thing is crap. It is utterly hideous. I think it's egocentric and vain.

  

「それに、あの果てしない体外受精(IVF)の処置をやり遂げなきゃならないということもだ。つまり、子どもが欲しいというのは、それはすばらしいことだよ。だが、2人のゲイが精液をカクテルシェーカーで混ぜ合わせて、誰か顔を引きつらせたレズビアンに受胎させて、それからそれを取り出すなんてのは、本当に気味悪いだけだよ」。

"And these endless IVF treatments people go through. I mean, if you are meant to have babies then great. But this whole idea of two gay guys filling a cocktail shaker with their sperm and impregnating some grim lesbian and then it gets cut out is just really weird.

  

「もし僕が親になりたいと強く思ったら、養子縁組をするかー里子を引き取るだろう。だが、僕らゲイについて,親になるというアイディアばかりに焦点を当てられるこの現状は、あまりに嘘っぽいよ。結婚?赤ん坊?止めてくれ。僕はイリーガルでいたい。主流を外れて生きていたいんだ」。

"If I did have the impulse to be a parent, I would adopt - or foster. But this whole thing of forcing the idea of parenthood on us gay men is so bogus. Marriage? Babies? Please. I want to be illegal. I want to live outside the mainstream."

  

彼はこう付け加える。「それとも、僕が少々先を行っているんだろうか?変化が必要だよ。ああいう恐ろしい中産階級的なオカマはー彼らのせいでゲイ・ムーヴメントがどうなったかーあまりに退屈だ。Abercrombie & Fitch[ブランド名]にベビーカーってか。誰でも自分がしたいようにする権利がある。っていうのにまだ…」

He added: "Or am I slightly ahead of the curve? It has to change. These awful middle-class queens - which is what the gay movement has become - are so tiresome. It's all Abercrombie & Fitch and strollers. Everybody has the right to do what they want to do, but still…"

  

たまたま、偶然だけど、ゆうべ仕事しながら『予告された殺人の記録』を観て、ああルパ様このころは若かったな〜カッコ良かったな〜(今はどうかな〜)と感慨にふけっていたのだ。

それがどうだ、相変わらず、カッコいいじゃないか!

  

僕は、ゲイの次世代再生産に賛成だ。

僕自身が、子どもの親になりたいと長く思っていたためでもある。

ゲイが家族を作る手段として、人工授精や代理母制という技術を使うことも、いいと思っている。

(むろん、レズビアン・カップルの精子提供による家族作りも同様だ)

そのための手続きや、アフターケアのガイドラインを十分に整えるという努力を、十分に行ってだ。

(たとえば、体外受精で生まれた子どもに関しては、自分の遺伝子上の親を探す権利についても議論がされている。体外受精による家族作りは、そういうことも当然の前提として含んでおくべきだと僕は思う。)

だが、「親子は遺伝子上のつながりがなければならない/あったほうがいい/あるにこしたことはない」というような考えかたには、僕は反対だ。

  

ここで、エヴェレット様の発言の背景を考えてみる。

うろおぼえの記憶で、記述にまったく責任が取れないのだが、体外受精によるレズビアン・ゲイの子ども作りが行われるのは、「自分の遺伝子を持つ子どもがよい」という思い込みだけではなく(そういう考え方をするレズビアン・ゲイも、またそれなりにいるのだろうが)、クリスチャニティが深く関わっている養子縁組制度が同性愛者に厳しい、という事情も関係しているのではないかと思う。

そうした事情もあり、同性愛者が体外受精で子どもを持とうとする、それに対し拒否的反応(保守的な人びとの、同性愛者が家族形成すること、また科学技術で"人工的"に子どもを作ることへの反発)が社会から来る、それに対し同性愛者権利運動は反論する…

そういう循環が、生じているとも考えられる(完全に想像だが)。

  

だがその権利のための運動が、すでに狭量な価値観に落ち込んでいる。

なぜ遺伝子を共有することで「家族」を作らなければならないのか。

家族は「結婚」や「遺伝子」によってしか作れないのか。

そもそも、なぜ「家族」を作ろうと思う必要があるのか。

人が生きたいように生きる権利がある。結婚しようとしなかろうと、家族を作ろうと作らなかろうと。人が生きるための選択を妨げ、あるいは貶める社会と制度の不当性、それを叫んでいたのではなかったのか。

「結婚」をし「子ども」を作る(なんたって少子化時代だから!)「よい同性愛者」であることを理由としてしか、異性愛者と対等の権利を要求できないゲイ権利運動を、「中産階級的な古くさいオカマ」となじるルパ様は、クィア的にはたぶん非常に正しい。

  

(追記)

エヴェレット様のお言葉の訳があまりに駄訳だったので、少し修正。

特に「But this whole thing of forcing the idea of parenthood on us gay men is so bogus. 」の箇所は、完全な誤訳だった。「ゲイ=親になりたがっているとばかり言われるのは、現実を反映してない(子どもを持つことになんか興味ないゲイもたくさんいる)」という意味だろう。

  

もちろん、結婚や子どもにまるっきり関心のないゲイも大勢いるってことは、同性愛者に異性愛者と対等な家族形成の諸権利を認めねばならないということと、少しも矛盾しない。「マイノリティは真面目に切実に(マジョリティ以上に必死なぐらい)その権利を求めているのだから、認められるべきだ」と取られることが、そもそもおかしいのだ。

  

(追記)

上記のなかで無茶苦茶アバウトなことを書いた同性カップルの養子縁組@英国について。

Adoptation - Stonewall

2002年制定のThe Adoption and Children Actにより、イングランド・ウェールズで同性カップルを含む非婚カップルの養子縁組が可能になった(2005年3月より施行)。

Stonewallの見解によると、公的機関が同性カップルの養子縁組申請を拒否する例は見られないが、結婚した夫婦にのみ養子を斡旋する方針を持つ宗教的な養子斡旋機関などが拒否する可能性はある。

  

スコットランドでは、2006年にthe Adoption and Children (Scotland) Act 2007が通過。

同性カップルは、異性カップルと同じように、カップル双方が親権を持つ養子縁組ができるようになった。

  

No exemption for churches in UK gay adoption law - January 31, 2007 - The Sydney Morning Herald

The Equality Actにより、2008年末以降、宗教機関も同性カップルの養子縁組申請を拒否できなくなった。

  

Agencies obey gay adoption rules - 1 January 2009 - BBC News

The Equality Actの移行期限が失効した2009年1月1日、同性カップルへの養子斡旋に抵抗していたカトリック系機関なども、法に従うことに。

  

オーストラリア聖公会の同性愛者の聖職者按手

| 10:13 | オーストラリア聖公会の同性愛者の聖職者按手 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - オーストラリア聖公会の同性愛者の聖職者按手 - Ry0TAの日記

  

オーストラリア聖公会の同性愛者の聖職者按手に対する方針も、よく分かっていないのだが。

  

Anglican Church of Australia

2004年、オーストラリア聖公会総会(general Synod)は、同性愛(者)に関連するいくつかの決議を出している。

聖職者按手に関する決議は、以下。

  

63/04 Sexuality & Gender Relationships – 3

Recognising that this is a matter of ongoing debate and conversation in this church and that we all have an obligation to listen to each other with respect, this General Synod does not condone the ordination of people in open committed same sex relationships.

  

オーストラリア聖公会も、「同性愛関係を持っていることを明らかにしている」人物の按手は認めない、が方針のようだ。

「同性愛者は認めるが、同性愛行為・関係は認めない」

「ゆえに、同性愛者が聖職者に按手されるかは、celibateであるか否かにかかっている」

という路線だ。

しかし、celibacyをどこで判断するのか。

同性婚またはシビル・ユニオンを結んでいないということか。

シビル・ユニオンを結んでいないオープンリー・レズビアン/ゲイの聖職者が無条件に承認されているか?というと、そうではない。

同性愛者だとカムアウトした聖職志願者が「問題化」するレベルは、個々の事例により様々である印象を受ける。

この点を、もう少し考えないと。

  

  

カナダ聖公会の同性愛者の聖職者按手

| 09:50 | カナダ聖公会の同性愛者の聖職者按手 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - カナダ聖公会の同性愛者の聖職者按手 - Ry0TAの日記

  

カナダ聖公会の同性愛者の聖職者按手に対する方針が、よく分かっていない。

  

Anglican Church in Toronto Defrocks Priest Who Is Gay - March 22, 1992 - The New York Times

1992年、トロント教区が、男性との関係を絶つことを拒んだJames Ferry師を聖職剥奪した。

11年間司祭職にあったFerry師(当時39歳)は、これより1年前、ゲイであることを教会にカムアウトし、またその後、自分が担当する信徒団のメンバーたちが、自分がある男性と持っている関係に気づいており、公にしようしていると打ち明けていた。

同性愛者の聖職者を認めるが、独身(celibate)でなければならないという、1979年のthe Anglican House of Bishops in Canadaの決定が根拠である。

  

カナダ聖公会は、1997年、「人間のセクシュアリティに関する声明」を発表している。これは基本的に上記の1979年の声明の再確認である。

HUMAN SEXUALITY : A STATEMENT BY THE ANGLICAN BISHOPS OF CANADA - 1997 - Anglican Church of Canada

  1. カナダ聖公会は、同性愛を、広く人間のせくシュアリティの中で考えてゆく。
  2. すべての人間は性的指向にかかわりなく紙の前で平等であることを認める。同性愛指向を持つ人間は受け入れるが、同性愛行為は受け入れない。
  3. 同性婚の祝福はしない。
  4. 同性愛者であることをカムアウトした人物の聖職者按手は、その人物が性的行為を慎むことを約束していれば、問題にされない。

We will not call into question the ordination of a person who has shared with the bishop his/her homosexual orientation if there has been a commitment to the Bishop to abstain from sexual acts with persons of the same sex as part of the requirement for ordination.

  

この内容は、1998年のランベス会議の声明とほぼ同じ方向性だ。

(ランベス会議の声明は、「同性愛者の聖職按手を奨励しない」としているが、カナダ聖公会はcelibacyを条件に認めている点が異なる)

  

この声明に対するカナダ聖公会LGBT団体Integrity/Torontoの批判は、

Gay Clergy Respond to Anglican Bishops' Statement on Homosexuality - March 1998 - Greenbelt Interfaith News - Greenbelt, Maryland, U.S.A.

2009-04-11

米聖公会のオープンリー・レズビアン/ゲイの聖職者と、Carter Heyward師(フェミニスト神学者、オープンリー・レズビアン聖職者)について

| 21:48 | 米聖公会のオープンリー・レズビアン/ゲイの聖職者と、Carter Heyward師(フェミニスト神学者、オープンリー・レズビアン聖職者)について - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 米聖公会のオープンリー・レズビアン/ゲイの聖職者と、Carter Heyward師(フェミニスト神学者、オープンリー・レズビアン聖職者)について - Ry0TAの日記

  

米聖公会のニューヨーク市主教Paul Moore師は、1977年、同派のLGBT組織・Integrityの副会長でありレズビアンであることを公言していたEllen Barrett師を司祭に按手した。→参照

これが米聖公会の最初のカムアウトした同性愛者の聖職者按手であり、Barrett師の任命は、1980年代にカムアウトしたレズビアン・ゲイの聖職者の登場につながったという。

  

しかし、2003年のGene Robinson主教任命が「問題化」されるまで、同性愛者聖職者按手に対する聖公会の姿勢は、はっきりしていなかったらしい。

Anglicanism / Episcopal Church - glbtq

  

In 1996, a church trial was held of the Right Reverend Walter Righter for having ordained an openly gay man while Righter was an assistant bishop in the Diocese of New Jersey. The court dismissed the charges, finding that the Episcopal Church had no clear doctrine on this issue. The contentious issue came to a head with the consecration of Bishop Robinson in 2003, a move that exposed the deep rift in the denomination over glbtq issues.

  

glbtqは、カムアウトした上で按手された聖職者の事例を挙げていない。

が、現職としてカムアウトした2人の聖職者の事例を紹介している。

  

the Reverend Malcolm Boyd

1986年、著作『Gay Priest』の中で自分をゲイとして自認していったことを語る。

1996年から、ロサンジェルスのCathedral Centerに所属する作家・詩人。

  

the Reverend Carter Heyward

かの「The Philadelphia 11」の1人。

フェミニスト神学者。

1975年からthe faculty of the Episcopal Divinity School in Cambridge, Massachusettsに所属。

1979年、Barrett師を支持するために、レズビアンであることをカムアウト。

Carter Heyward - Feminist Theory Website

Feminist Theory Website - Center for Digital Discourse and Cultureの、Carter Heyward師のバイオグラフィと著作一覧。

Rev. Dr. Carter Heyward - LGBTRAN

LGBTRAN: Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender Religious Archive Network収録のバイオグラフィー。

A Conversation with Carter Heyward, Pioneer Episcopal Priest - Birgit's Place

米聖公会女性聖職者任命25周年記念のときのインタビュー。女性聖職者のための活動や、カムアウトについて語っている。

  

1人あしかをはじめてみる

| 15:30 | 1人あしかをはじめてみる - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 1人あしかをはじめてみる - Ry0TAの日記

  

先の日記ではてなグループの使いかたがよく分からん、ということを書いたが、ほんとうに1人あしか(タスクツール)を使いはじめてみる。

  

ファースト・タスクは

IDAHOに向けて、「ホモフォビア」をクィアする

「ホモフォビア」という概念がどのように成立し,用いられてきたか、その有効性についてどんな批評があるか、基本的な知識をまとめておこう、というもの。

5月17日の「国際反ホモフォビアの日」のための今年のマイ課題。

  

タスク遂行のための具体的な課題を思いつくままにサブタスクとして追加してゆける。

サブタスクの遂行は、ダイアリーのコメント機能とまあ同じだ。

メモやコピーを単純なテキスト形式でどんどん突っ込んでいける。

長文で情報量の多いブログエントリをまとめたいときにも、使える機能かもしれない。

使っていくうちに「やっぱダメだ」的な欠点も見えて来るかもしれないけれど。

さっそく出てきた問題は、タスク遂行入力画面が、ダイアリーのコメント欄同様、狭くて入力し辛いこと。設定を変えることができないかな?

まあ、もう少しやってみよう。


よく分からないはてなグループの使いかた

| 13:26 | よく分からないはてなグループの使いかた - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - よく分からないはてなグループの使いかた - Ry0TAの日記

  

グループを作ったはいいが、はてなグループの使いかたがよく分かっていない。

ダイアリーのエントリにまとまらないメモや覚書きを書く場所が欲しくて、ほとんどなにも考えずにグループを作ってしまったが、ローカルなはてなの中でもさらにローカルっぽいグループに手を出してしまったことに、一抹不安がある。まさかはてなサービスしか使えない体になってしまったのか…!

  

なにかのテーマや目的で人が集まるためには、そこそこ悪くないマルチサービスじゃないかと思う。

それぞれ勝手に日記を書ける。他のメンバーがなにやってるか、覗きたければ覗けば良いし、興味なければ放っときゃいい。

なにか共同で作業をするならあしかを使えばいいし(イベントの準備をしたり,同人誌を作ったりする人たちには、いいかもしれない)、皆で話し合いたいことは掲示板に投稿すればいい。

キーワードは、まだ使いかたがよく分からないんだが、なにかいいことあるんだろう、たぶん。

  

しかし、そういうことがしたくてグループを開いたわけじゃないので、みごとムダになっている。

カレンダーは使えるので、使い始めてみた。

いまにあしかで1人タスクとか掲示板で1人会話とか始めるかもしれない。

まあ、どうなるか分からない。

ともあれ、このグループは誰でも入れる設定になってるので、自分をクィアするために何かを書く場所があったら便利だと思っているひと、自由にお使いください。


変化を拒む論理

| 11:40 | 変化を拒む論理 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 変化を拒む論理 - Ry0TAの日記

  

みやきちさんが、アメリカの反同性婚運動組織が作ったLGBT嫌悪的なTVCMの暴論っぷりにつっこむエントリを書いておられた。

このCMを作製したNational Organization for Marriage(2007年設立)は、当人の主張によれば「結婚を守る」ためにSSM(same sex marriage)に反対する組織なのだが、人工授精によるレズビアン・ファミリー作りや、家族の多様性を教える教育にも反対しているようだ。

  

カリフォルニアで同性婚を禁じるプロポジション8批准のキャンペーンを張っていたProtect Marriageという組織も、たいがい電波としか言えないCMを作って流していたが、これを「電波」で片づけるわけにもいかない。こうした主張を「電波」だと思っていない人たちが、現にいるのだから。

  

きちんと調べているわけではないので、漠然とした印象としてしか語れないが、保守的な価値観に基づく「家族」のありようを自明のものとして、その保護・維持を目指そうという動きは、特定の宗教・伝統社会ごとのものではなく、グローバルな運動になっている。

World Congress of Families

  

たとえばこのWorld Congress of Familiesは、全体として見ると極端に保守的な活動や主張を行っているわけではない。だが、WCFが定義する自然な家族(natural family)は、「結婚による両親が揃った子どものいる『健全』な異性愛家族」の枠を出ていない。その枠が引き起こす問題、「健全な家族」の機能不全、その枠からこぼれ落ちる人びとが被る不利益や害の問題は、「家族」をかれらが「自明」としているあるべき枠に引き戻し続けることで解決されるのだろうか?そこにはむしろ、現実を見ない判断停止が生じるような気がする。

  

以前ブログのエントリにも書いたことがあるが、「家族」が「信仰」化している。世界が、社会が流動化するなかで、「家族」の紐帯を自然・所与・自明のものとして強烈に肯定し、家族を基盤とする社会システムの維持を肯定しようとする。そうした論理は、むろんいまある家族関係を積極的に評価したりサポートするという役割を果たしてもいるだろうが、おなじ論理が同性婚やクィア家族や性教育を排除しようとする動きやディスコースにつながり、「家族防衛法」「婚姻防衛法」といった法制化へつながっている。

  

そしてこのような動きに、日本も連動している。

WCF(世界家族会議)関連ニュースー家族の絆を守る会

  

ともあれ、National Organization for Marriageが、結婚に関する自分たちの主張を語る、そのディスコースを見てみよう。

興味深いのは、かれらが「同性愛は"異常"だ」とか「異性愛が"正常"なのだ」とか「だから同性婚は許せない」とは言っていない、ということだ。

サイト全部を読んだわけじゃないのだが(読む気にもなれないのだが)、あのヘンテコCMを作った組織が看板として掲げるこのディスコースに僕は、

「ああ、この手の主張は、こういうところまで来たか」

と、思わされた。

「こういうところまで」というのは、うまく言葉にできないのだけれど、「ここまで自分自身をむき出しにするところまで」という意味だ。

  

Marriage Talking Point - National Organization for Marriage

同性婚

その最も強情な問いに答える

大多数のアメリカ人は、同性婚に反対している。そのため、同性婚の支持者は、なんでもいいからテーマを変えようと試みている。差別、利益、同性愛、ゲイライツ、連邦主義、我らの神聖な憲法などと。我々の目的は単純だ。話をすみやかに結婚に戻せ、脇道に逸れるな。結婚が問題だ。我々が気にしているのは結婚だ。結婚は本当に重要だ。これはただの常識だ。

SAME-SEX MARRIAGE:

Answering the Toughest Questions

Strong majorities of Americans oppose gay marriage. Supporters of SSM therefore seek to change the subject to just about anything: discrimination, benefits, homosexuality, gay rights, federalism, our sacred constitution. Our goal is simple: Shift the conversation rapidly back to marriage. Don’t get sidetracked. Marriage is the issue. Marriage is what we care about. Marriage really matters. It’s just common sense.

  

ただひとつのもっとも効果的な一文  

I. THE MOST EFFECTIVE SINGLE SENTENCE:

  

広範に、繰り返し行われた投票は、次の言葉がただひとつのもっとも効果的なメッセージだということに同意している:

「ゲイとレズビアンは、自分が選んだように暮らす権利を持っているが、

我々すべての人間にとっての結婚の定義を変える権利は持っていない」

Extensive and repeated polling agrees that the single most effective message is:

"Gays and Lesbians have a right to live as they choose,

they don’t have the right to redefine marriage for all of us."

  

この一文によって、人びとは、寛容への支持を表明しながら、同時にゲイの結婚に反対することができる。ある人は、それを修正して、「人間は自分が選んだように暮らす権利を持っているが、我々すべての人間にとっての結婚の定義を帰る権利は持っていない」と言っている。

This allows people to express support for tolerance while opposing gay marriage. Some modify it to “People have a right to live as they choose, they don’t have the right to redefine marriage for all of us.”

  

是が非でも避けねばならない言葉は、「同性婚撲滅(Ban same-sex marriage)」だ。我々の土台(?)(base)この言葉を非常に好んでいる。だから同性婚支持者もこの言葉が好きだ。彼らは、この言葉のせいで、我々が約10%票を失うと分かっている。この言葉を使うのはよそう。我々は「結婚の再定義」に反対しているのだと、「結婚は夫婦の結合である」と言おう。決して「同性婚を撲滅する」と言ってはならない。

Language to avoid at all costs: "Ban same-sex marriage." Our base loves this wording. So do supporters of SSM. They know it causes us to lose about ten percentage points in polls. Don’t use it. Say we’re against “redefining marriage” or in favor or “marriage as the union of husband and wife” NEVER “banning same-sex marriage.”

  

つっこみどころはたくさんあるような気がする。

「我々皆」とは一体誰を指しているつもりなのか。「我々」「皆」のなかからは、はじめから性的少数者は排除されているのか。

しかし、見逃せないのは、このディスコースを強烈に支配しているある傾向だ。

「いまあるシステムが変えられる」ことへの反発と、その反発は当然認められる、正当なはずだという、どこに根拠があるのか(少なくとも僕には)分からない確信である。

  

 マイノリティがマイノリティであることを表明し,マジョリティに「受容」を求めているうちは許容される。しかし、双方が乗っている規範そのものを問い始めた途端、「良心的な」マジョリティは,自分の利害を照らし合わせ、その行為に「過激だ」とレッテルを貼る。様々な課題に、そのような図式があるような気がする。

  

堀江有里『「レズビアン」という生き方ーキリスト教の異性愛主義を問う』p. 131.

2009-04-10

米聖公会最初のオープンリー・レズビアンの司祭

| 17:12 | 米聖公会最初のオープンリー・レズビアンの司祭 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 米聖公会最初のオープンリー・レズビアンの司祭 - Ry0TAの日記

  

米聖公会が女性の聖職者を正式に認めるようになったのは1976年。

同じ年、米聖公会は、同性愛者を「神の子ら」(=受洗者=信徒)であることを宣言する。

同性愛者であることを公言した最初の司祭が按手されたのは、その翌1977年のことだった。

米聖公会最初のオープンリーな同性愛者の司祭は、レズビアンである。

この人のことが知りたいなー、しかしウェブじゃ情報が見つからないなーと思っていたのだが、検索の方法を変えたらあっさり見つかった(拍子抜け)。

  

The Lesbian Priest - Monday, Jan. 24, 1977 - TIME

  

リベラルなニューヨーク市主教Paul Mooreにより按手されたのは、Ellen Barrett司祭、当時30歳。

Ellen Barrett - en.Wikipedia

1974年に設立された米聖公会のLGBT組織IntegrityUSAの初代副会長だった。

  

それにしても、TIMEの記事は、なんとも時代を感じさせる。「committed homosexual」「practicing homosexuals」というのは、「(聖書が禁じると言われているところの)同性間性行為をしている同性愛者」ということだろう。

Barrett司祭は、パートナーとの関係を、「私が聖職を遂行するための力と共感を与えてくれるもの」と表現している。

それが、「(彼女は)『同性愛傾向』をいくぶん超越している(goes somewhat beyond "homosexual tendencies." )」だそうだ。

同性愛(者)がどんな目で見られていたか、というのを、思い知らされる。これは、だが30年経った今でも、(「宗教的」でない身近な社会においても、)変わっているだろうか?

しかし、そういう圧力に対するMoore主教の言葉がすばらしい。

The Episcopal Church, which has just begun ordaining women as priests, added a new twist to that innovation last week. New York City's liberal Bishop Paul Moore ordained the Rev. Ellen Barrett, 30, the denomination's first openly committed homosexual priest of either sex. In an unusual last-minute plea to prevent the action, Colorado's Bishop William Frey had wired Colleague Moore: "Ordination of practicing homosexuals does not represent the mind of the church and is plainly contrary to the teachings of Scripture which we have all sworn to uphold."

  

During Barrett's ordination service, another priest, James Wattley, spoke out against it as a "travesty and a scandal." Moore answered that "many persons with homosexual tendencies are presently in the ordained ministry," and that Barrett was "highly qualified intellectually, morally and spiritually to be a priest."

  

Barrett, who has been studying for a doctorate in social ethics at the Graduate Theological Union in Berkeley, goes somewhat beyond "homosexual tendencies." She has said candidly that her relationship with her lesbian lover "is what feeds the strength and compassion I bring to the ministry." She also believes that "homosexuality is an alternative life-style that can be a good and creative thing."

  

ホモフォビア・チェックリストを訳してみた

| 08:04 | ホモフォビア・チェックリストを訳してみた - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - ホモフォビア・チェックリストを訳してみた - Ry0TAの日記

  

1980年に作られたホモフォビア・チェックリスト、Index of Homophobiaに訳をつけてみた。また不完全で、推敲の余地が大分あるけれど。

  

日本語でしっくりしたニュアンスになるよう、ところどころ大きく意訳した(とはいえ、原文のニュアンスがつかめてるか、あやしいけど)。「queer」はクィア・ムーブメント以降の自称としての「クィア」ではなく、差別的・侮蔑的なニュアンスを持つ他称として、「オカマ/レズ」としてみた。

  

面白いな、と思ったのは、「ジェンダーフリー・チェックリスト」とか、自分のブログで翻訳した「シスジェンダー特権チェックリスト」などは、自分がどういう性差問題や性別二元制度の問題に無自覚か、という「気づき」を促すことを主な目的にしているけれど、このIndex of Homophobiaはやっぱり心理テストだということだ。質問の反復で回答の恣意性を取り除くといった、微妙な仕掛けが施してあって、興味深い。

  

これについては、もう少しメモを続ける(たぶん)。

2009-04-09

ホモフォビア・チェックリスト(Index of Homophobia)

| 22:34 | ホモフォビア・チェックリスト(Index of Homophobia) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - ホモフォビア・チェックリスト(Index of Homophobia) - Ry0TAの日記

日記にたくさんブクマがついていて驚く、さらにノンケだと思われているらしいのに驚く。

  

1996年アリゾナ大学の実験で使われた「質問表」、通称「Index of Homophobia」

正式には

Index of homophobia (Index of attitudes toward homosexuals) [IAH] (1980).

  

Handbook of sexuality-related measures, Thousand Oaks, Calif. : Sage Publ., 1998.

isbn:0803971117

pp. 367-368.

に収録。

  

Index of Homophobia(PDF)

LGBT Resource Center, Bowling Green State Universityのアーカイヴから。

  

ところで、Handbook of sexuality-related measuresの内容は、以下のページで紹介されている。

ジェンダー・セクシュアリティについての意識度などを調べるチェックリストをまとめたものだが、こんなにたくさん種類があるのか。

Sex-related Mesures - Western Washington University Library

  

ホモフォビア・チェックリスト、やってみよう。

※こうすれば日本語のニュアンスに合うんじゃないかと、ところどころ大きく意訳している。ニュアンスが合っているだろうか?

  

次の5段階で答える。

  

1 Strongly Agree 本当にそう思う。

2 Agree  そう思う。

3 Neutral  普通。

4 Disagree  そう思わない。

5 Strongly Disagree まったくそう思わない。

1.) I would feel comfortable working closely with a gay man.

1.)同性愛者の男と一緒にくつろいだ気分で働くことができると思う。

2.) I would enjoy attending social functions at which queer people were present.

2.) オカマ/レズの連中がいる公共施設に楽しんで入ることができると思う。

3.) I would feel uncomfortable if I learned that my neighbor was queer.

3.) 隣の人がオカマ/レズだと知ったら、落ち着かない感じがすると思う。

4.) If a member of my sex made a sexual advance towards me, I would feel angry.

4.)同性が性的な接近をしてきたら、怒ると思う。

5.) I would feel comfortable knowing I was attractive to members of my gender.

5.)自分が同性にとって魅力的だと知るのは、気持ちいいだろう。

6.) I would feel uncomfortable being seen in a gay bar.

6.) ゲイバー/レズビアンバーにいるのを見られるのは、よい気分ではないと思う。

7.) I would feel uncomfortable if a member of my sex made an advance

towards me.

7.)同性が自分に接近してきたら、不快に感じると思う。

8.) I would be comfortable if I found myself attracted to a member of my sex.

8.)自分が 同性に惹かれていると気づいたら、よい気分になるだろう。

9.) I would feel disappointed if I learned that my child was queer.

9.) 自分の子どもがオカマ/レズだと知ったら,失望すると思う。

10.) I would feel nervous being in a group of queers.

10.) オカマ/レズに取り囲まれてたら、緊張すると思う。

11.) I would feel comfortable knowing that my clergy person was queer.

11.)自分の教会の牧師がオカマ/レズだと知ったら、いい気持ちがすると思う。

12.) I would be upset if I learned that my sibling was queer.

12.)自分のきょうだいがオカマ・レズだと知ったら、動揺すると思う。

13.) I would feel that I had failed as a parent if I learned that my child was gay.

13.)自分の子どもが同性愛者だと知ったら、親として失敗したと思うだろう。

14.) If I saw two men holding hands in public, I would feel disgusted.

14.) 公の場で男2人が手をつないでいるのを見たら、いやな気分になると思う。

15.) If a member of my gender made an advance towards me, I would be offended.

15.)同性が自分に接近してきたら、不快になる。

16.) I would feel comfortable if I learned that my daughter’s teacher was a lesbian.

16.)自分の娘の教師がレズビアンだと知ったら、よい気持ちがするだろう。

17.) I would feel uncomfortable if I learned that my spouse or partner was attracted to a member of his/her gender.

17.) 自分の妻/夫やパートナーが同性に惹かれていると知ったら、よい気持ちがするだろう。

18.) I would feel at ease talking with a queer at a party.

18.)パーティーでオカマ/レズの人と話をすると寛いだ気分になると思う。

19.) I would feel uncomfortable if I learned that my boss was queer.

19.) 自分の上司がオカマ/レズだと知ったら、不快に思うだろう。

20.) It would not bother me to walk through a predominantly gay section of town

20.) ゲイタウンを歩くのは気にならない。

21.) It would disturb me to find out that my doctor was queer.

21.) かかりつけの医者がオカマ/レズだと知ったら動揺する。

22.) I would feel comfortable if I learned that my best friend of my gender was queer.

22.) 同性の親友がオカマ/レズだと知ったら、いい気分になる。

23.) If a member of my gender made an advance towards me, I would feel flattered.

23.) 同性が自分に接近してきたら、得意になる。

24.) I would feel uncomfortable knowing that my son’s teacher was queer.

24.) 息子の先生がオカマだと知ったら、不快に思う。

25.) I would feel comfortable working closely with a lesbian.

25.) レズビアンの近くで快適に働くことができる。

  

  

イラクで連続する性的少数者の殺害

| 22:00 | イラクで連続する性的少数者の殺害 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - イラクで連続する性的少数者の殺害 - Ry0TAの日記

IRAQI LGBT

在英イラク人LGBT団体のブログ。

今年アップされているのはゲイの殺害に関するエントリばかりだ。

  

しかし、同性愛者やトランスジェンダーが殺されるという状況は、少なくとも3年も前から訴えられ続けてきた。

「イラク人を殺す10の理由」 by Brian Whitaker-2006年04月19日-Falluja, April 2004-the book

  

Gay Life, Gay Death in Iraq

http://www.youtube.com/watch?v=5ajSopj95CU

Institute for War and Peace Reportingによるフィルム、2006年10月

2009-04-08

「ホモフォビアが強い人間は実は同性愛指向を持っている」という研究

| 20:23 | 「ホモフォビアが強い人間は実は同性愛指向を持っている」という研究 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「ホモフォビアが強い人間は実は同性愛指向を持っている」という研究 - Ry0TAの日記

  

針間克己先生のブログで映画『Milk』の感想を拝読。ミルクを射殺したダン・ホワイトの尋常とは思えない精神状態について取り上げておられたが、それについてコメント欄で、「ホモフォビックと判断された男性のほうがゲイエロビデオを見て勃起したという研究があります」と言った方がいた。

  

その研究は、日本語ウェブでも取り上げられていたし、たしか話題になっていたと思う。しかし、検索しても、北丸雄二さんが取り上げている、1997年アリゾナ大学の研究しかとりあえずヒットしなかった(目下あまり気力が湧かず)。ウェブ上で話題になったのはここ1,2年のことじゃないかという記憶があるのだが。

  

男社会のホモフォビアーStill Wanna Say?まだ言うか?

http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_8.html

  

「ホモフォビアが強い男は,実はそういう欲望を隠し持っているのだ」

という仮説が、しかし、僕は大嫌いである。

だいたい、勃起したら欲望を持っているという前提からして、本当に正しいのか。勃起のメカニズムなんて、そんなに単純なのか。見慣れないものを見る緊張、ホモフォビックな固定観念にとらわれた人間がしばしば持っている「自分が襲われる」という不安感が刺激されて、勃起することだってあるかもしれない。比較できることかどうか分からないが、男にレイプされ、勃起したことに深いトラウマを負わされるサバイバーの男性もいる。勃起によって「はい、あなたも同性愛指向があります」という結論を導くことに、いったいどんな妥当性や意味があるんだろうか?

  

「ホモフォビックな男は、実はホモセクシュアルの欲望を持っており、それを抑圧しているからホモフォビックになる」

という説に、僕が非常に大きな抵抗を感じるのは、まずそれが

「ホモフォビアを持っているのはみな同性愛者である」

という結論を導きだすからだ。「ホモフォーブは実は隠れホモ」というわけだ。そしてホモフォビアは、ぜんぶ同性愛者自身の問題・責任にされてしまう。

  

そして、自分をヘテロセクシュアルと自認し、同性愛に嫌悪感を持つ男、ホモフォビックな感情を逃れられない人に、

「それはおまえが実は同性を求めているからだ」

と追い討ちをかけてどうなるのだ。その人が、本当に同性愛指向を持っており、それを指摘されて解放された、という場合ならともかく、ヘテロセクシュアルとして問題なく生活しているといれば。そういう人に必要なのは、嫌悪を克服するための知識と分別であり、自分も同性愛者的なところがあるのだなどという自覚ではないだろう。macskaさんが言ったように、ホモフォビアに苦しむのはホモフォビアを持っている人なのだから。

  

ホモフォビックな人間に、自分の同性への欲望を確認してもらう必要なんか僕は感じない。同性愛との冷静な距離の取りかたと、公的礼儀を守る分別を学んで欲しいだけだ。

(追記)

この研究は、ウィキペディアにも載っている。

Homophobia: Internalized homophobia – en.Wikipedia

Some argue that some or most homophobes are repressed homosexuals, but this argument is somewhat controversial. In 1996, a controlled study of 64 heterosexual men (half claimed to be homophobic by experience and self-reported orientation) at the University of Georgia found that men who were found to be homophobic (as measured by the Index of Homophobia)[29] were considerably more likely to experience more erectile responses when exposed to homoerotic images than non-homophobic men.[30]

  

論文の書誌情報

“Is homophobia associated with homosexual arousal?”.

By Adams, Henry E.; Wright, Lester W.; Lohr, Bethany A.

Journal of Abnormal Psychology. Vol 105(3), Aug 1996, 440-445.

  

アブストラクト

Is homophobia associated with homosexual arousal? – APA PsycNET

もう少し詳しい紹介

New Study Links Homophobia with Homosexual Arousal – APA Press Releases

うまいぐあいに倒れたのはいいが

| 19:09 | うまいぐあいに倒れたのはいいが - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - うまいぐあいに倒れたのはいいが - Ry0TAの日記

  

天罰があたった。きのう終電まで残業(サービス)して残業なのにグループ日記やブログの更新をしてたら(むろん仕事もしたが)、とうとう倒れた。

そろそろいっぺん倒れるぐらいが良かったんじゃないかと思う。とりあえず今日は職場に行かなくても仕事は回るので、木曜日の会議までに出て来い、ということで、休ませてもらった。休日出勤やりすぎだったので、休みを振り替えるかたちにしてもらう。

  

今年は仕事のやりかたを変えなければならない。労働法を自分で破ってる。残業は避けられないが、休日はきちんと取らないと。仕事はしなければならない。でも、自分の「労働時間」のなかに収めないと。あっというまにすべての生活が仕事に呑み込まれる。

なんとか子どもを持って家族を持とうなんて夢はとっくに諦めたが、これから自分の生活はいったいどうなるのだろうと思う。いずれにせよ、自分で舵取りをしないとどうにもならなくなる。

  

せっかく転がり込んだ休みだが、あいにく気分が悪過ぎて、何もする気になれない。病欠というのはそんなものか。忘れていた。

本も読む気にもならない、DVDを観るのも億劫。こういうときこそ単純作業だ、材料を買ったままにしている常備菜を作ろうと思ったが、食欲も味覚もぶっ壊れているときに料理できるか。

  

ブログの計画も随分溜まっているのだが、まったくやる気になれず。

ブログに上げようと思っていたノート(アングリカン・コミュニオンの女性聖職者任命について)を整理しなければと思うが、気力がわかない。

せめてネットを巡回してブックマークをしようと思ったが、その気にもなれない。

というか、あまりにブログ生活を離れていたので、ぜんぜん感覚が戻っていない。文章の書き方がまるで分からない。その意味で、このグループ日記は、割とリハビリになっているかもしれない。関心の向くままメモしていくことで、自分がウェブ空間でなにをやっていたのかを思い出している。

  

取りあえず、自分が書く必要があるもの、書きたいものを、思い出せる限り箇条書きにしてみる。

  • 「ルツ記」についた批判への応答エントリ(どう書けばいいのか途方に暮れる批判なのだが…自分には大切なエントリなので、なんとか書かねばならない)
  • ジョグジャカルタ原則:2008年のジョグジャカルタ原則をめぐる動きに、完全について行き損ねてしまっている。クロノロジーから作らないと。
  • カミングアウトについて:「押して、押して、押し倒されろ!」さんの素晴らしいエントリに応答したい。
  • 感想:本:星乃 治彦『男たちの帝国』:「クィア・ヒストリー」を評価したいのだが、書くなら読みなおさないと。
  • 感想:論文:黄淑閑(女偏)「中国・香港・台湾映画の異性装にみるジェンダー試論」:映画「梁山泊と祝英台」のトランスヴェスタイティズムについて。異性装表現がストレートかクィアかという問題だけではなく、テーマがフェミニズムと関わりがある(家父長的社会下で女性に課せられた制限を脱するための男装)であること。
  • 感想:論文:劉人鵬/丁乃非「同性愛嫌悪」と含蓄・寛容の美学」:台湾のレズビアン文学に見えるアジア的ホモフォビア・カミングアウトの課題。
  • 感想:本:サラ・ウォーターズ『荊の城』『半身』の、「狂人として閉じ込められ・監視される女性」というテーマについて。
  • 感想:映画:ビル・コンドン『ゴッド&モンスター』:ゲイとノンケの「共生」「友情」の可能性を探る。他のなには書けなくてもこれは書きたい。
  • 感想:映画:大島渚『御法度』:決して好きな映画ではなかったが、ふと観なおしたくなっている。軍隊的ホモソーシャル組織の中で男が「サークルクラッシャー」であった、というストーリーとして観なおすと?でもそういう観かたは、すでに誰かやっているだろうな。調べてみないと。

2009-04-07

米長老派教会のレズビアン聖職者

| 22:02 | 米長老派教会のレズビアン聖職者 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 米長老派教会のレズビアン聖職者 - Ry0TAの日記

Presbyterian Lesbian Still Fighting for Ordination - March 25, 2009 – glaadBLOG

サンフランシスコの長老派教会は、Lisa Largesさんを牧師に按手した。

彼女はオープンリー・レズビアンで、同派で同性愛者であることを公言した最初の聖職者となる、はずだった。

が、Presbyterian commissionはこれを拒否。

Largesさんは抗議し、問題化している。

  

長老派教会のLGBT聖職者叙任は、どうなっているのか。

2001年6月15日記事

Presbyterian General Assembly Lifts Ban on Ordination of Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender Presbyterians

2005年6月30日記事

米合衆国長老教会、同性愛問題めぐり2006年にも分裂の可能性ーゲイジャパンニュース

  

しかし、米長老派教会にはMtFトランスジェンダー、バイセクシュアル女性の牧師がいる(参考)。

Largesさんは同性愛者(レズビアン、ゲイ)として最初の、ということだろうか。

  

4月27日追記

  

米長老派教会はカミングアウトした同性愛者の聖職者を承認しないことが多数決で確定された。

  

米長老教会の同性愛聖職者、なお容認ならずークリスチャントゥデイ

米長老教会(PCUSA=信徒約230万人)で進められていた「同姓愛聖職者容認」は、昨年夏の大会で決議されたが、全米173の中会の多数が批准する必要があった。4月25日に2中会が批准しないことを決め、批准は少数に止まることが確定した。

 牧師、ディーコン、長老候補者は「1人の男子と1人の女子との間の結婚という誓約または独身の貞潔という節操を保つ」ことを必須としていたが、それを除外して同性愛聖職者を容認しようとする「同姓愛聖職者容認」が先送りされる形となった。

 同派ではこれまでにも同様な経過があったが、中会の賛否の差は縮小しているという。

  

「ホモセクシュアル・パニック」と「ゲイ・パニック・ディフェンス」

| 21:53 | 「ホモセクシュアル・パニック」と「ゲイ・パニック・ディフェンス」 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「ホモセクシュアル・パニック」と「ゲイ・パニック・ディフェンス」 - Ry0TAの日記

概念が「???」と分からなくなってきたので、とりあえずコピペ

  

※あとでセジウィックを引用

※抜粋翻訳して、ブログにまとめる(かも)

  

ホモセクシュアル・パニック(心理学概念用語として)

homosexual panic - en.Wikipedia

Homosexual panic is a term, first coined by psychiatrist Edward J. Kempf in 1920, describing an acute, brief reactive psychosis involving delusions and hallucinations accusing a person of various homosexual activities.[1][2] Despite the psychotic nature of the disorder, Kempf called it "acute homosexual panic". The disorder is also known in Kempf's honour as "Kempf's disease".

The condition most often occurs in people who suffer schizoid personality disorders[citation needed] who have insulated themselves from physical intimacy. Breakdowns often occur in situations that involve enforced intimacy with the same sex, such as dormitories or military barracks. It was most common during the mass mobilization of World War II when barracks typically provided little privacy with communal showers and often without doors or even cubicles around toilets.[3]

Treatment usually involves hospitalization, firstly to remove the person from the situation and also because the condition may lead to suicidal or homicidal acts. Antipsychotics, either the typical or atypical, help symptoms subside if they continue much after admission. It is best to avoid further provocation and for this reason caregivers often are selected from members of the opposite sex, and invasive procedures such as injections with needles or suppositories are avoided. Return to previous levels of adaptation is common after symptoms subside, but treatment usually involves advice not to return to the type of environment that prompted the condition.

This condition has been used as a legal defence (see gay panic defense) and the validity of this has been challenged in some jurisdictions.

ゲイ・パニック・ディフェンス(法廷における概念として)

gay panic defense - en.Wikipedia

Gay panic defense[1] is a term used to describe a rare but high-profile legal defense against charges of assault or murder. A defendant using the gay panic defense claims that he acted in a state of violent temporary insanity because of a little-known psychiatric condition called homosexual panic.[2] Trans panic is a similar defense applied towards cases where the victim is a transgender or intersex person.

Details

In the gay panic defense, the defendant claims that he or she has been the object of romantic or sexual advances by the victim. The defendant finds the advances so offensive and frightening that it brings on a psychotic state characterized by unusual violence. While never common, use of the gay panic defense has become increasingly rare as homosexuality becomes more accepted. Judges often allow the defense only to establish the defendant's honest belief in an imminent sexual assault[citation needed].

Guidance given to counsel by the Crown Prosecution Service of England and Wales states: "The fact that the victim made a sexual advance on the defendant does not, of itself, automatically provide the defendant with a defence of self-defence for the actions that they then take." In the UK it has been known for decades as the "Portsmouth defence"[3][4] or the "guardsman's defence"[5] (the latter term was used in an episode of Rumpole of the Bailey made in 1980). In Australia, it is known as the homosexual advance defence (HAD).[6][7]

The defense often sparks outrage within the gay community when it is used, where it is said to be "blaming the victim."[citation needed] No analogous defense pertaining to heterosexual encounters has been recorded[citation needed]. It is also occasionally used in cases of violence against transgender or transsexual persons.[citation needed]

その他のリファレンス?

キリスト教の同性愛のとらえかた

| 20:57 | キリスト教の同性愛のとらえかた - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - キリスト教の同性愛のとらえかた - Ry0TAの日記

実はよく分かっていないので、整理しておく

  

聖書が「同性愛」を否定しているという論拠

ウェブ上仮想教会三十番地キリスト教会iChurch.me

キリスト教では同性愛はいけないんですよね?-下世話なQ&A

  

三十番地教会ではもちろん「ぜんぜんオッケーです」が答えだけど(笑)、

とりあえず「論拠」とされている聖書の該当箇所

  

旧約聖書

  • レビ記18章22節「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」
  • レビ記20章13節「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず処刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」
  • 創世記19章(ソドムの町)
  • 申命記22章5節「女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる」←これはトランスヴェスタイティングを否定する「論拠」

  

新約聖書

  • パウロ・ローマの信徒への手紙1章24-32節「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」
    • 26-27節が、聖書でレズビアニズムについて言及している(かに見える)唯一の箇所
  • パウロ・コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章9-10節「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません」
  • パウロ・テモテへの手紙Ⅰ 1章9-10節「すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです」

  

「キリスト教が同性愛(者)を受けいれることができるのか」という問い

堀江有里『「レズビアン」という生き方-キリスト教の異性愛主義を問う』isbn:4400427048 pp. 171-172.

do.「宗教と性的少数者」『ジェンダーで学ぶ宗教学』isbn:4790712796 pp. 217-229.

  

「何を」「受けいれる」のか(北米プロテスタントの議論)

  • 聖礼典を執行する牧師の資格 →聖職者按手問題
  • 教会の構成員(信徒)としての資格
  • 同性間「結婚」の制約・儀式の執行

  

「誰を」排除することを想定しているのか

  • 主流教派の中の反対グループ
    • 「同性愛(homosexuality)は生物学的、遺伝学的に決定されている」と認識
    • 「同性愛行為」は「罪」

→「同性愛者(lesbians, gays)」の存在は認めるが、同性間性行為(homosexual activity)は退ける→「同性愛を実践しない人びと(non-practicing homosexuals)」のみを支持

  • 右派グループ
    • 「同性愛者(homosexuals)」自体が忌むべきこと

→「同性愛者」の存在を認めず、あくまで「同性愛(homosexuality)」という現象/行為として認識し、矯正すべきものと捉える

  

※しかし、「同性愛(者)」とは?

堀江『「レズビアン」という生き方』 p. 183.

日本基督教団の同性愛者差別事件 伊藤発言「ホモセクシュアルなビヘイビア」

同性愛者とカミングアウトすることが、「同性間性行為」の「告白」と取られる

→カミングアウトすることで、「同性間性行為を行う者」と看做され、「信徒/聖職者として認めるか」という議論の対象として問題化する。

(黙っていれば、異性愛者)

  

具体的には?

アングリカン・コミュニオンのデータを追っていて、見た事例:さまざまなレベルでの論争

信徒の資格
  • LGBTを「<神の子(children of God)>として認める」と公式承認(データ)
    • 「神の子」=受洗者=信徒
聖職者の資格
  • カミングアウトしたLGBTの按手はダメ(全否定)
  • 独身(celibate, celibacy)であれば可
  • CU、同性婚をしていても、性行為をしないなら可
    • 英国国教会、「性行為を持たない」ことを条件に、同性愛者聖職者のパートナーの権利を承認(英国のCU法制化に対応し、英国市民の権利として)
  • 下位の聖職は可
    • 米聖公会Gene Robinson師の主教按手(2003年)が、「コミュニオン分裂」の騒ぎに

fhcgvnptjvfhcgvnptjv2013/08/28 02:06pphysrvffsjohnf, <a href="http://www.cetzcjybkn.com/">nwbdguimpx</a> , [url=http://www.vgatdxhsii.com/]afovqmfyiw[/url], http://www.fwdmimpusx.com/ nwbdguimpx

2009-04-06

LGBTクリスチャンのための団体・ネットワーク・リソース

| 00:16 | LGBTクリスチャンのための団体・ネットワーク・リソース - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - LGBTクリスチャンのための団体・ネットワーク・リソース - Ry0TAの日記

これも多数あるので、調べるならきちんと調べなければいけないが。

とりあえず、検索の過程で知ったもののみ。

(しかし、合衆国の組織ばかりだな…)

  

Whosoever: An Online Magazine for Gay, Lesbian, Bisexual, and Transgender Christians

LGBTクリスチャンのためのオンライン・ジャーナル(超教派?)

  

プロテスタント諸派

Institute for Welcoming Resouces: Towards a Welcoming and Inclusive Church

プロテスタント5派のLGBT組織によるネットワーク

the National Gay and Lesbian Task Force Foundationの1部らしい

  

The Center for Lesbian and Gay Studies in Religion and Ministry (CLGS) was established at Pacific School of Religion

カリフォルニア・バークレーのプロテスタント系新学校Pacific School of Religionに付属する、LGBTの神学教育のためのセンター


ルーテル教会

アメリカのルーテル教会は、独身を条件に同性愛者の聖職就任を認めている、らしい(ソースはなんだっけ)。

  

Extraordinary Lutheran Ministries(USA)

LGBTの聖職志願者の名簿・保証書を持ち、かれらを聖職者として受けいれる教会に紹介する活動をしている。

メソジスト

The Reconciling Ministries Network (RMN) (USA)

 アメリカの合同メソジスト教会のLGBT組織、LGBTの聖職者按手の問題にも取り組んでいる

  

長老派

More Light Presbyterians(USA)

  

米国合同教会United Church of Christ

The UCC Coalition for LGBT Concerns

堀江有里さんが2002年に参加した「コアリション」だな。

バイセクシュアル、トランスジェンダーの聖職者(キリスト教)

| 23:08 | バイセクシュアル、トランスジェンダーの聖職者(キリスト教) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - バイセクシュアル、トランスジェンダーの聖職者(キリスト教) - Ry0TAの日記

  

More Light on Bisexuality and Transgender

HTMLで読む

  

2002年

長老派の牧師、

The Reverend Susan Craig

The Reverend Erin Swenson

の対談。

  

Susan Craig師はバイセクシュアル、2008年にパートナー(同性の)と結婚したこの方だろう。

Clergy and Same-Sex Marriage - June 27th, 2008 - Religion & Ethics

Erin Swenson師は、MtFトランスセクシュアル

The Reverend Erin K. Swenson, Th.m.. Ph.D.

  

キリスト教と性的少数者の問題、とりわけ聖職者の問題は、「同性愛」やレズビアン・ゲイにばかり関心が偏りがちだ。

「バイセクシュアルとトランスジェンダーにもっと関心を向けよう」

という主張は、重要で興味深い。

トランスジェンダーの聖職者(キリスト教・ユダヤ教)

| 16:33 | トランスジェンダーの聖職者(キリスト教・ユダヤ教) - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - トランスジェンダーの聖職者(キリスト教・ユダヤ教) - Ry0TAの日記

  

キリスト教会の聖職者叙任問題で、「同性愛者(であることをカムアウトしている)か否か」はシンボリックな論争点として大きく取り上げられる。が、トランスジェンダー聖職者については、十分に注目されていない印象を受ける。

トランスジェンダーの聖職者叙任について、ウェブ上で見つかる情報を集めてみる。

Trans Christians

 トランスジェンダーとキリスト教の様々な問題に取り組むためのリソース

  

アングリカン・コミュニオン(聖公会)

Anglican Church - Trans Christians

  

英国国教会

英国国教会のトランスジェンダーに対する偏見は大きいが、女性司祭按手が認められて以来(1994年)、5人の聖職者が性別移行しているそうだ。

  

Carol Stone師

ブリストル教区主管者代理(vicar)、46歳のとき女性にトランスしたが、聖職を続けることを認められた。

Vicar can carry on preaching after sex change (Daily Telegraph)- Press for Change: Campaign for Respect and Equality of All Trans People

2000年6月20日。ブリストル主教は、「no ethical or ecclesiastical legal reasons why the Rev Carol Stone should not continue in ministry in the Church of England」と述べている。

Anglican vicar returns to work as a woman - ioL

2000年11月29日

  

Sarah Jones司祭

MtFトランスセクシュアルであることを公表し、2004年に執事に、2005年に司祭に按手された。

Sarah Jones – greenbelt_festival

 Jones司祭のプロフィール。

Evangelical Alliance Condemns Ordination of Transsexual in Church of England – September 29, 2005 – Christian Today

 2005年9月29日。保守派の按手への反対について。

Bishop defends transsexual curate – BBC News

 2005年9月24日。Jones司祭按手の報道。主教はJonesさんの支持を表明した。

Being transsexual within the Church of England – BBC: Woman’s Hour

 2005年11月1日。Jones司祭のインタビュー

Transgender Priest Speaks Out - Peterson Toscano's A Musing

  

プロテスタント諸派:ルーテル教会

The Lutheran Church - Trans Christians

  

Jay Wilson牧師

ジェンダークィアのtransman。2008年12月に按手され、サンフランシスコのFirst United Lutheran Churchで奉仕。

Openly transgender minister ordained – Extraordinary Lutheran Ministries

2009年1月6日記事。

  

プロテスタント諸派:長老派教会

The Presbyterian Church - Trans Christians

  

Erin Swenson牧師

MtFトランスセクシュアル、1996年に按手された。→参照

http://www.youtube.com/watch?v=vzDGzbZICA0

 2007年11月20日の「トランスジェンダー追悼の日」のビデオ

  

プロテスタント諸派:メソジスト教会

The United Methodist Church - Trans Chiristians

Trans Christiansによれば、合同メソジスト教会はトランスジェンダーに対して特に公式の方針を持ってこなかった、という。

  

Drew Phoenix牧師

2006年、女性から性別移行し、男性として聖職を続けることを認められた。

Transgender pastor prompts uneasy questions for Methodists - 10/18/2007 - USA Today 

  

しかし、2002年、女性に性別移行したRebecca Ann Steen牧師は、教会を去らねばならなかった。

Transsexual Methodist Minister Resigns - 7/2/2002 - tgcrossroad org

Complaint filed against sex-change pastor. (News). - June 19 2002 - Articles Archives 

  

プロテスタント諸派:Metropolitan Community Church

Metropolitan Community Church - Trans Chirsitians

Metropolitan Community Church - en.Wikipedia

メトロポリタン・コミュニティ・チャーチは、トランスジェンダー聖職者を按手した最初の教会。

1968年に性的少数者のための教会としてロサンジェルスで設立され、現在、23カ国に250の教会・信徒団を持つ(en.Wiki)。

  

MCCのSky Anderson師、2007年の説教ビデオ。

http://www.youtube.com/watch?v=CSzVfAb9l4E

  

    

ユダヤ教

Transgender Clergy: The Osgood File (CBS Radio Network): 9/25/03 – ACF News Source

 2003年9月25日。FtMトランスジェンダーのラビ志願者、Reuben Zellmanさん。

Transgender Jews Now Out of Closet, Seeking Communal Recognition

 2009年1月1日。ラビ就任6ヶ月前にカムアウトしたElliot Kuklaさん。  

Looking to traditional texts, transgender Jews cross halakhic lines - HAARETZ.com

 ハアレツ紙の同じニュース

「同性愛を治療する」活動組織

| 14:56 | 「同性愛を治療する」活動組織 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「同性愛を治療する」活動組織 - Ry0TAの日記

  

いわゆる「ex-gay」運動だが。

たまたま検索で、「それ」系の組織のサイトに行き当たってしまった。

そういえば、どこにどんな組織があるのか具体的に知らなかったので、クリップしてゆくことにする。

(といっても僕がチェックできるのは、英語圏のみだが…)

「同性愛を治療する」論拠は「宗教」だけでなく、「科学」、「人権」…多様かもしれない。

(※ex-gayサイトもex-gay movementに抗うサイトも少し検索するとザクザク出てくる)

  

Ex-Gay Watch

これはex-gayなほうじゃなくて、ex-gayをウォッチングするほうのサイト。

ex-gay movement関連のみならず、性的少数者差別・人権問題についてのニュースも豊富。

  

ex-gayな団体

Exodus International

 これは宗教系。

Exodus is a nonprofit, interdenominational Christian organization promoting the message of Freedom from homosexuality through the power of Jesus Christ.

Since 1976, Exodus has grown to include over 230 local ministries in the USA and Canada. We are also linked with other Exodus world regions outside of North America through the Exodus Global Alliance.

だそうだ。

    

NARTH: National Association for Research & Therapy of Homosexuality

NARTH upholds the rights of individuals with unwanted homosexual attraction to receive effective phychological care, and the right of professionals to offer that care.

だそうだ。

  

People Can Change: Men who overcame unwanted same-sex attractions supporting others who seek similar change

  

ex-gayのエクソダス

  

Beyond Ex-gay

ex-gay、「同性愛を矯正する」という経験から逃れたサバイバーのネットワーク

Beyond Ex-Gay is an online community and resource for those of us who have survived ex-gay experiences. So often healing comes through community and through sharing our stories and experiences with each other.

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2009-04-05

森高至貴さんの仕事

| 10:48 | 森高至貴さんの仕事 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 森高至貴さんの仕事 - Ry0TAの日記

  

森高至貴さんの論文や学会報告について、ウェブ上の情報を集めてみる。

学会報告「「性的差異」の技法化に向けて――タチ/ネコという用語系を手がかりに――」

 日本社会学会第80回大会(2007年11月17日(土)-18日(日) 於関東学院大学金沢八景キャンパス)

http://www.gakkai.ne.jp/jss/research/conf80_pmain.html

  

書評「個体化主義の陥穽:佐倉智美『性同一性障害の社会学』を読む」

『書評ソシオロゴス』3(2007)

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/review/review0301moriyama.pdf

  

論文「懸命にゲイになるべき」か?――雑誌『Badi』にみるセクシュアリティとライフスタイルの関係性」

『論叢クィア』1(2008), pp. 76-98.

http://queerjp.org/journal.html

  

論文「技法としての「性的差異」」『相関社会科学』 17(2008.3)

http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/research/kodomo.html

  

書評「素通りされるクィアネスを再び擁護するために―絲山秋子『エスケイプ/アブセント』をクィアに読む 」

『比較文学・文化論集』25

http://fusehime.c.u-tokyo.ac.jp/students/ronshu.html

  

学会報告「人を選り好みすることとしての愛-その決定論的性質を考慮した研究のために」

 日本社会学会第81回大会(2008年11月23日(土)-24日(日) 於東北大学)

http://www.gakkai.ne.jp/jss/research/point/01/001_057.pdf

http://www.gakkai.ne.jp/jss/research/conf81_p.html



鶴田幸恵さんの仕事

| 10:32 | 鶴田幸恵さんの仕事 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 鶴田幸恵さんの仕事 - Ry0TAの日記

  

トランスジェンダー論・ジェンダー論について興味深い仕事をしておられる鶴田幸恵さんの学会報告や論文について、ウェブ上の情報を集めてみる。

  

ReaD研究者-鶴田幸恵

奈良女子大学-鶴田幸恵

  

  

学会報告「「真のTS(トランスセクシュアル)」をめぐる実践と精神療法」

 関東社会学会第49回大会(2001) 第5部会:戦後日本〈トランスジェンダー〉の社会学

http://wwwsoc.nii.ac.jp/kss/congress/49/points_section05.html#report_05

  

論文「第6章 「金八」以降の知識の広まりは何をもたらしたか──FtMカテゴリー使用の論理── 」

 石田 仁 編 『性同一性障害──ジェンダー・医療・特例法』2008年9月30日・御茶の水書房 刊、ISBN:978-4-275-00806-0

http://www.geocities.jp/webhitoshi/gid_contents.html

ここのところ、女性から男性へのトランスジェンダー・性同一性障害であるFtMの数が、「増えている」という。それは、2001年10月から2002年3月にかけてTBSで放送された「3年B組金八先生第6シリーズ」以降のことだと、インタビューをしたFtMたちは断言する。そのドラマでFtMが取り上げられたのを見て、自分がFtMだと思うようになった人が多く現われた、というわけだ。FtM人口が増えるのに伴って登場したとされるのが、“なんちゃって”と呼ばれる人びとだ。“なんちゃって”は、FtMの下位カテゴリーであり、FtMコミュニティのなかで、時には暗に、時にはあからさまになされる批判の対象となっている。“なんちゃって”とはどういう人のことなのだろうか。“なんちゃって”とそうではないFtMは、同じように自分を女ではないとカテゴリー化するという共通点を持ちながら、どのような差異を持っているとされているのだろうか。すなわち、“なんちゃって”とそうではないFtMは、どのような基準によって異なるカテゴリーだとされているのだろうか。それを、トランスジェンダー・性同一性障害当事者へのインタビュー・データをもとに記述しようというのが、本稿の目的である。

はじめに──“猫も杓子もFtM

I “なんちゃって”の登場

 1. “モラトリアム”期間の産出

 2. 困った存在の意味

II 男らしさ

 1. 「男」としての一貫性

 2.  「自然」な「男らしさ」

III ヘテロセクシュアリティ──「レズビアンのタチ」との差異化

 1. 男性ホルモン注射を打つ“真剣”さ

 2.  レズビアンとの恋愛の拒否

おわりに

2009-04-04

「トランスジェンダーの日」

| 22:40 | 「トランスジェンダーの日」 - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「トランスジェンダーの日」 - Ry0TAの日記

4月4日が雛祭り(3月3日)と端午の節句(5月5日)の「中間」の日だという理由で「オカマの日」というギャグがあるが、誰が言い出したのか。

  

だが今日メモ&ブクマしておきたいのは、4月4日が「トランスジェンダーの日」ということのほうだ。

前から気になっていたのだが、ちゃんと情報をあつめたことがなかった。

  

ちょうど10年前の1999年2月、「TSとTGを支える人々の会(TNJ)」が、「日本記念日協会」に対して4月4日を「トランスジェンダーの日」とする申請を行った。

  

今日の記念日-日本記念日協会

  

今日はこの↑ページで、以下の「記念日の由来」の説明を読むことが出来る。

  

●記念日の由来

トランスジェンダーとは自分の身体の(解剖学的な)性別やそれに属する社会的、文化的性別に対して強い違和感や不快感を感じている人達の総称。性同一障害やトランスジェンダーの当事者や支援者を中心に、交流や情報交換、社会的な対応の改善などを目的として活動する「TSとTGを支える人々の会」が1999年2月に制定した日。3月3日の桃の節句(女の子のお祭り)、5月5日の端午の節句(男の子のお祭り)の間にあるこの日を「性別とは何か」「男と女」だけでは捉えきれない性の多様性について社会的な理解を深めてもらうための日としている

  

最初の「トランスジェンダーの日」である同年4月4日、日刊スポーツが「4月4日は"オカマの日"」という記事を掲載し、TNJが抗議文を送る、という事件があった。

  

日刊スポーツ1999年4月3日号21面記事 「4月4日は"オカマの日"」への抗議及び同記事の訂正に関する要求-TSとTGを支える人々の会

  

トランスジェンダー当事者の間では多くの批判もあったと聞いている。

まさに「4月4日=女の子の日と男の子の日の間="オカマ"の日!!(笑)」という笑いが、偏見を塗り重ねトランスジェンダーを傷つける恐れがあるから、だろう。

    

国際的なアクティヴィズムのなかでは、11月20日が「トランスジェンダー追悼の日」とされている。

Transgender Day of Remembrance - en.Wikipedia

1998年にヘイトクライムで殺された黒人のトランスジェンダーRita Hesterさんを記念した日だ。

Rita Hester - Remembering Our Dead - Gender Org

  

しかしそのアクションのやり方を、macskaさんは批判されている。

トランスジェンダー追悼イベントの不愉快 - macska dot org

  

日本の「トランスジェンダーの日」は、LGBT当事者のあいだで、特に意味を持っているようには見えない。

  

けれど、記念日の意味についての上掲の文章は毎年この日にウェブに登場する。「今日は何の日?」のようなネタに関心のあるサイトやブログは多いから、少なからず転載もされている。

  

日刊スポーツのように「なるほど"オカマ"の日か!」と残酷な笑いを浮かべる人もいるかもしれないが、「4月4日=オカマの日」ネタで笑いかけていた顔を真面目にする人もいるかもしれない。

  

それは何かを穿つ細い水流のようなものを少しずつ注いでいるだろうか?

  

いわゆる「4月4日」問題-トランスジェンダーなページ-窪田理恵子のホームページ

 窪田理恵子さんが、「トランスジェンダーの日」についての考えを述べておられるページ。

切りのよさそうな日から

| 21:58 | 切りのよさそうな日から - Ry0TAの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 切りのよさそうな日から - Ry0TAの日記

グループを作ったのはもうずいぶん前なのだけれど、何も書かずに放置していた。

  

どんな風にやっていくか、考えるヒマがなかったのだけれど、しかし、

  

4月4日

  

というゾロ目の日づけに背中を押されて見切り発車的に始めてみる。

  

この日記は、はてなダイアリーに載らないメモ、スクラップ、引用、情報プール…そんなものになる予定です。

  

課題は、自分をクィアすること。